見出し画像

想像できる人は、きっと福祉に向いている。

障がい福祉の世界にどっぷり浸かる気はなかったのだけれども、今は、本当にその世界に浸っている。私が、この世界に向いているかどうかはわからないけれど、それでももう15年以上続けているのだから、きっと、何かが自分にあっているのだと思う。それでも長くやっていると、いつしか、惰性のような気持ちで、利用者やそのご家族と向き合おうとする自分に気が付く。だから、その都度、自分に「お前は一体何様だ?」と問いかける様にしている。

常に、フラットな感情でいたいと思うけれど、私は神でもなければ、仏でもない。悟りを開いているわけでもない。そもそもが欠陥だらけだという自覚があるから、私が気取って、相手に何かを強く求めることもしないようにしている。また、私は、利用者や家族ができることは、私が手伝ったりはしない。それは、きっと、いつまでもここにいることができるとは思えないから。本当の親友ならば、同じ様な状況であっても「自分でしろよ」「お前のことだろ?」って、きっと正直に言うと思うから。私は、いつまでもその場にいることはできないし、自分でできることが、その人の人生を豊かにすると信じている。結果的に、私自身にも負担にならないから、さらなる他の誰かを受け入れる余裕も生まれる。

時々、こんな話をする。目玉焼きは何をかけて食べますか?と。塩派?胡椒派?ソース派?醤油派?ケチャップ派?マヨネーズ派?他にもきっと、いろんな食べ方をする人たちがいて、それぞれがみんな「普通」だと思っている。でも、ある人にとっての普通が、ちがう人には普通ではないことはかなりある。ちなみに、私は醤油派(しかも、九州醤油ね!)なのだが、きっと「え?」という人も多いはずだ。それくらいに、当たり前は違うのに、私の価値観ですべての人に「醤油」をお勧めすることはできないし、しない。これが、政治だったり、宗教だったなら戦争である。それは大袈裟だとしても、私たちの価値観を相手に押し付けることは、相手からすると、怒りか、悲しみしかわかないことでもある。だから、人にアドバイスをするということには、本来は慎重であるべきなのに、そうでない人たちが相談員をしていることが多い。それは、支援というよりも、なんでも決めてあげる「依存」を生んでいるだけだと思っている。また、私は「福祉のスタンダード」と言う人を信用しない。それは、あなたのスタンダードであって、それぞれのスタンダードではないから。この世で一番幸せなのは、きっと、どんな状況になっても、自分のことを自分で選ぶことなのかもしれない。

自分について、振り返ったり、想像できない人は、きっと、福祉は向かないと思う。特に最近は、自分で気がつけない人が、他の職員に指摘されて逆ギレする傾向のある人が増えた。周囲は気がついているのに、本人は気がつけないのだから、本人は、指摘されれば「パワハラ」だの「セクハラ」だの言うだけ言う。でも、気がついてないのはあなたであって、本来なら気がついてもらわないと、利用者を巻き込んだ事故になってしまうのだよ。そういった人のために、さらに人を割かないといけないのであれば、何のための増員だってことになる。職員はいるのに、職員が職員をみている状況であって、利用者を見ることができていない現場が意外と多いのに驚く。その原因を探っていくと、採用が間違っているからと言わざるを得ない。「資格者だから」「経験者だから」というと、どうしても甘くみてしまう傾向が強いのが、ダメな経営者の採用手段。背景には、配置基準の問題がある。向かないのに、福祉にいるのは、慢性的な人手不足だからでもある。この業界は慢性的な人手不足だから、いろんな人たちがここで関わって働こうとしている。離職率が高いのも、別に給与が低いやきついからといっただけではなくて、業界がその人に適していないのに、ここにいることができることに問題がある。だから、私は、採用以前の適職診断の問題だと言っている。なぜ、そういった結果に行き着いたかと言われれば、私自身が採用を担当しているし、とにかく人と面談するためには、どういったアプローチが必要かということを、支援をしながら、事業運営をしながら、ずっと考えているからだ。だから、私は目的があって、履歴書も手書きが絶対だし、面談日の設定から相手の状況を見る様にしている。

人は、考える生き物だし、考えることをしなければ、人間としての仕事ではないのかもしれない。AIに駆逐される仕事の多くは、考えない仕事だと言われている。クリエイティブや想像やイメージといった、人間的な営みが必要な仕事が今後も残っていくと言われている。では、福祉の仕事はどうなのだろうか?もし、ルーティンワークが希望であれば、はっきりいうとなくなる仕事である。その人がどう考えて、どう思っているのか、それを想像しながら適切なアプローチを考えて支援を行うようなことを行なっていれば、きっと、その仕事は残り続ける。福祉の仕事はのこる仕事だと信じているが、残念ながら、やっている仕事はルーティンワークなのかもしれない。いや、むしろそうやってAIやロボットに置き換えられた方が、利用者も幸せなのかもしれないとすら考える。

私はあえて、遠い将来について、まだまだ幼いお子さんをもつお母さんに話をすることがある。まだ、先の話なんだけど、そういった話をしておくことは、将来に向けて考えるきっかけにもなる。6ヶ月に1回、そう言った話をしておくことで、その時々で、保護者に考えるきっかけを提供する。でも、そうやって話をすることで、今の我が子を考えるきっかけにもなる。「トイレと食事が自立すると、就労に向かっていけますよ!」なんて話を振っておくだけでも、次の半年後に会って、受給者証の更新手続きのためのサービス等利用計画書を書くころには、そんな内容が出てくるようになる。きちんと情報を提供するということは、将来の方向性を考えるきっかけになるし、そういった明確な目標がでてくれば、支援者も明確に個別支援計画に反映することができるはず。

私たちだけではなく、支援者も保護者も、利用者本人も、考えるということがいかに大切かということ。そして、イメージすることは、その後の人生を大きく変えることにもなる。想像できたから、危険を察知できるのであって、イメージできたから、自分には合わないと感じることができるのだ。人間はイメージする生き物だし、それを最大限に活かすのが、福祉のお仕事だと思っている。考えることが嫌いな人は、この業界は適切ではないのかもしれない。多くの施設や病院では、時間に合わせて半ば強制的に風呂にいれるけれど、きっと、今の私は自分で風呂に入る時間は、自分で決めている。人生最後の死ぬ間際ころになると、風呂に入る時間までも自己選択できない人生を送ることになる。それが、私たちの言う立派で高尚な「福祉」という奴だから。いつか、自分がされることになるという想像は、誰もできないのであーる。


よろしければ、サポートをお願いします!いただいたサポートは、大好きなコーヒー代にして、次の記事を書く時間にしたいと思います!