「自分の見える視野は、世界はもちろん、日本の、地域の、自分の活動する領域の、ほんの一部でしかない。」と言い聞かせ続けよう。
「自分は(絶対的に)正しい」と思うこと、ましてやその思いを根拠にして他者を責めたり、他者の権利や可処分時間を奪ったりすることはほんとうによくありません。
その姿勢を諫める言葉として「無知の知」という言葉があり、私も好きな言葉の1つです。
一方で「無知の知」という言葉を使うときに、「「無知の知」という言葉を知っている」という自覚が生まれ、その自覚が過信となり、いつのまにか「「無知の知」を”知っている”だけの無知」という状態になることがある気がします。
どんなときにそんな状態が生まれるか。
それは「自分と同じ社会的環境などの人」と比較して「「無知の知」と気づいていて、無知を補うために真摯に努力している」状態のときです。
たとえば。
私は「学校現場の中の人」ではないです。一方で
・一般的な「学校現場の外の人」よりもずっと、学校現場を見ているし、知っていると自覚している
・「学校現場の外の人」かつ「教育」の領域で活動している人の中でも、比較的「学校現場の中の人」と接点があり、コミュニケーションもしていると自覚している
・学校現場を知りたいと思った時に、人よりも様々な立場の人に意見を求める方だと”思って”いる
・自分のことを「バランスが良い」と言ってくれる方は相当数いる。
・私自身も「バランスが良い方だ」と自身のことを思っている一方で、それは根っこで「八方美人」というのとは違う、と思っている
・「思い込みが激しい」という生来の性格があると自覚している。それゆえ他者に思い込みで接しないようにしようとするがあまりに八方美人「的」になることがあり、それは結果として「バランスが良い」自分を生んでいるんだと思う
と自身を見ており、これら全体から、「自分は学校現場を見ている方だ。なぜならばバランスは良い方だし、思い込みの激しさを捨て去る努力をしている」という思いが過信になる状態が、そのようなときです。
この状態の時には、他者に対して、「自分は学校現場を知っている」と、他者をして感じられる表現をするようになっていると思います。
自分の見ている世界なんて、小中高で全部で3万校をゆうに超える「学校現場」の、ほんの一部でしかないのに。
自分の置かれている立場以外の立場のことを知りに行こうと努力することは、とても良いだと思います。
結果として、自分の置かれている立場”の中で”は人より弁えている、と内心で思うことはあってもよいと思います。
それが”自分は知っている”という「過信」に無自覚にならないためには、「自分の見える視野は、世界はもちろん、日本の、地域の、自分の活動する領域の、ほんの一部でしかない。」と自身に言い聞かせ続けることが一番の薬なのかな、と思います。
「知っている」というレベルが、相対的なものではなく絶対的な指標となり、そのことが「無知の知」の自覚へとつながりますから。
こういう姿勢が他者へのリスペクトにもつながるとも思っています。
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