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次の25年を見据えて ~ カメイズム ③ ~ 

昨日、英語嫌いの中学生が、

ー言葉なんて、分けなくて良くない?

と言い出した。

「はい?」と聞き返すと

ー全員、日本語を話せばいいやん!英語なんかなくていいやん!

と、返ってきた。

「誰かが分けたわけではなくて、分かれているんだよ、言葉は。だって、東京の人たちにも、私たちの使う松阪弁も通じない言葉があるでしょう。なのに、地球上の遠くにいる人ー地球の裏側に住む人たちの言葉と、私たちの話す言葉が一緒のままであるはずないでしょう?」

と、伝えると

ーでもさ、英語を話す国の人たちは同じ英語を話しとるやろ?

と、彼。

「いや、イギリスのテレビでインタビューなどでアメリカ英語が話されるとき、字幕でることあるよ。私が住んでいたテキサスの英語は全米で通じたわけではないよ。オーストラリアの英語とか、スコットランドの人が話す英語も、また違っているし、同じ国内でも、日本で東北の『めんこい』を『かわいい』と表現するような字幕は出るよ。こんな小さな日本でも方言があって、同じ日本語を話さないのに、大きな国や違う地域にある国で同じ英語のままのはずはないでしょう。」

と、言うと

ーそうなんか、、、

と言いながら、少し不満げだけれど、引き下がった。

最近、子どもたちの発言や言い訳が斜め上をいくというのか、短絡的すぎるというか、明後日の方向を向いていてびっくりすることが増えている。

そして、人間が万能であると勘違いしているのではないかと思えて戸惑うことも多い。

単に世界中の人が日本語を話せば良いのに、

という生徒は私が英語を教え続けている30年以上ずっといるけれど、

「分ける必要がない」という発想ー

分けた人がいたかのような、そして、状況を変えられるかのような表現が現代的で、戸惑う。

同時に、社会の大人たちが、英語だけでなく「学ぶ」ことの背景や意義をきちんと認識して、子どもたちに伝えていないことを思い知る。

子どもたちが学ぶのはテストの点数のためでも、有名な学校に進学するためでもなく

彼らが自立して自分たちで生きていくためだ。

「学ぶ」ということは、「生きる」ということでもあり、そのために、学校で学ぶ姿勢を整えて、人は学び、成長する。

いつも学ぶことがあり、その学びを楽しめる私は、自分を幸運だと思う。

そういう話をすると、変人扱いを受けるけれど、今はわからなくても、いつか彼らが私の伝えたいことに気がついてくれることを信じて、今日も、授業を続ける。

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