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次の25年を見据えて ③ ~ 元祖カメイズム⁈ ~

日曜日ー卒業生たちとの食事会の後、卒業生たちの1人がケーキを、もう一人がコーヒーを買ってくれて、寺子屋で茶話会をした。

そこで、父と私の話をした。

私は、戦前生まれの父と戦中生まれの母に育てられた。

以前、「違和感を考える」でも書いたけれど、父は、その時代の人にしてはリベラルな考えの持ち主だった。そのおかげで、私から見た、両親は私の理想の男女平等夫婦だった。我が家での女性の地位は、社会進出しなくても高かった。

妻が家にいて、家事を当然するものと考えられていたとしても、女性がその仕事に誇りを持ち、またその大切さを認め、感謝する夫が外で働き、家ではずっと座っていたとしても、それは男女平等だと私は考える。

父は、娘にも息子にも、本人が望み、努力をし、実力に見合っている限り、平等に教育の機会を与え、進学するにしても、将来の夢を語るにしても、娘たちを、「女」であることを理由に止めることはなかった。

ただ2回だけ、私が女であることを理由に、彼がとった行動がある。

1回目は、私が生まれたときー

男、男、女、女・・・と続いた我が家の子どもたちの最後に、母の子としては2人目として生まれる私に、男の子を期待していた父は、女の子だと聞いて、ガッカリして家にさっさと帰ってしまったという。

2回目は、彼の塾を閉じるときー

兄たちに継げないと悟った彼は、私は女の子だから継がせられないと考えて、私に何も言わずに閉じることを決めた。

その点では、父も、保守的な昭和のおやじだった。

でも、父の中にずっとあった私の生まれたときの「がっかり」を、父も私もわかっていたから、私は、何をするにもしっかりと頑張りを父に示し続けることができ、父は、そんな私をきちんとサポートしてくれたのだと私は信じている。

また、異母兄たちのことを考えたら、家族の中で、私は女の子だったから、生きやすく、外でも自分の実力を発揮していくことができたのだと私は思っている。

そして、寺子屋は、新しく私の塾として再開したから、今、私は自由に好き勝手運営させてもらっている。

父の壁があってこそ、女という壁があってこそ今の私があるのだと思う。

そんな話をした。

この秋13回忌を迎えるというのに、父の存在の大きさを実感する日々は続いている。

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