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正しい五感の使い方

大寒をひかえた1月の半ば、雪深い札幌から島に戻ると、梅の花が咲いていた。 
数日後にはふきのとうを探しに山を歩いた。ポケットとフードの中をいっぱいにして校舎に戻るやいなや、採れたてを天ぷらにする。いつもは3月が終わる頃に初物をいただいていたけれど、去年は北海道で採れはじめる前にこっちへ引っ越してきたので、実に2年ぶりの再会。口の中にひろがるほろ苦い春の味に、ちょっとたまらない気持ちになる。
海士町はもう春なのかなぁなんて思っていたところに、あのどか雪である。 

かまくらで鍋をしようと思い立ち、出汁を引いて野菜を切って、お肉を解凍する。炊飯器を12時半にセットして、いざかまくら。がしかし、ごはんが炊きあがっても完成にはほど遠く。 
雪をはこぶひと、固めていくひと、穴を掘るひと。白い息を吐きながら、寒さに鼻と耳を赤くしながら、みんなで無心に体を動かしつづけて、日が落ちる頃にようやく完成。お昼ごはんの予定が、結局晩ごはんになる。 
子どものとき以来のかまくらは、外にいるよりはあったかいけれど、だんだん指先と足先が凍えてくる。その感じと、雪のにおいがなんだかなつかしい。よく知っている、雪のある冬の静謐さを海士町の夜にみて、いまどこにいるんだっけ、と錯覚しそうになる。 

ある日には、島のひとが昨日撃ったというキジをひとり一羽ずつ手渡された。また別の日には大きなカジキが水揚げされたと聞いて、大敷へいそいだ。初めてさばく鳥に、人ひとりほどもあるメカジキ。思わぬ食材を前にひるむのは一瞬で、とにかくやるしかない。 
命あるものをいただくことは植物でも動物でも同じようにありがたく思うけれど、ほんの少し前まで生きて動いていた体に包丁を入れるのは、わたしにとって結構消耗することでもある。 

予定調和とはいかない自然に翻弄されて、想定外に疲れてしまったり、やりたかったことが後まわしになっていらついたり。それでもいまだからできることに、丁寧に、向き合っていたいと思う。だし巻きの練習をするために買ってきた大量のたまごも、さばききれていない冷蔵庫の中の魚のことも一旦わすれて、目の前のことに五感を集中する。 
それにしても、頭より五感に入ってくる情報量のなんと多いこと。寺子屋で料理を通して学んでいたのは、技術よりも五感を正しく使うことだったかもしれない。 

まだ寒いけれど、暦の上ではすでに春。 
そう思うとなんとなく陽ざしや空気も春めいて感じられるのは、気持ちの問題か。 
すぐそこまで来ている大好きな季節を待ち遠しく想う。 
でも、今年はゆっくり来てください。できるだけ。 

(文:島食の寺子屋生徒 佐野)