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帰国子女僧侶が、人生をふりかえってみた

テラエナジー取締役の本多です。僧侶です。タイトルのとおり、帰国子女でもあるんです。小学校のとき、アメリカに住んでました。帰国子女、つまりリターニーということもあって外国に興味があり、学生時代はしょっちゅう海外に行ってました。

アジア、アメリカ、ヨーロッパどこも好きです。国外に出るたびに、日本から脱出できてノビノビできる喜びと、一方で自分の故郷はどこかなのか…嬉しさと喪失感に板ばさみになりました。有名な歌「故郷(ふるさと)」、お寺でもあの歌を歌うことがあるのですが、歌詞を聞くたび、なんか複雑な思いになります。「自分の故郷は、どこだろう?」って。そういう意味では、ちょっと変わったキャリア&考えの持ち主かもしれません。

今はお寺の住職、大学での教鞭、それからテラエナジーの創業メンバーとして取締役をつとめています。趣味は茶道。古風な環境で育ったのもあって、古美術品を見る目はけっこうあるんじゃないかと勝手に思い込んでます(笑)。

これまでの人生、自分なりに楽しくも、葛藤をかかえながら歩んできました。ここにきてnoteを書く案が社内で持ち上がり、noteが何かも知らないなか、文章を書くことにしました。

言葉を紡ぐことへの葛藤

文章にしようと思っているのは、自分が大事にしていることや、人生の味わい。40歳代の人が人生を書くのって、実はけっこう大変だと思うんです。社会の一員として一定の安定を手に入れ、まわりからの信頼も、それなりにある。自分っていうのが否応なく固まってくる。一方、これからの人生のあり方に不安があったり、社会のあり方や人間のものの見方について若干の違和感を抱いてたりする。また、人生が中間地点を折り返して、人生そのものへの問いも出てくる。

いろんな視点が頭の中に交差してて、整理がつかないまま、現実をあと追いするしかない、そんな毎日。実をいえば、等身大の自分を言葉にしたくもあり、しかしそれをしないことで節度も保ってるという自負も持ちつつ、今は時間の経過と共に過ごそうといった日々でもあるんです。言葉を紡ぐことに、やや後ろ向きになる年代かな。

noteでは、そんな葛藤もできるだけ素直に言葉化しながら、自分自身が大切にしたいこと、それから経験から得られた気付きを書こうと思います。海外の話もちょくちょく挟みます。もちろん、TERAEnergyのことも折に触れて、言葉にしますので、ゆっくりしたときに読んでもらえたらうれしいです。以後の文章は、「です、ます」抜きで書きます。

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お坊さんらしさに、とまどう

「おはようございます。今朝の具合はどうですか?」

父と会話をするときのしょっぱなは、こんなかんじではじまる。父とは敬語で話すよう幼い頃から厳しく教育された。

和室で母が抹茶をたて、父と昨日のことをふりかえる。幼いころから、毎日ずっと続けている。

毎朝抹茶をいただくシーンは、お寺のイメージにぴったりだろう。また、敬語で話すのも僧侶のイメージに合致するだろう。僕自身、何の違和感もなく受け入れてきた。

けれども、僕のキャリアはそんな僧侶のイメージとは微妙なズレがある。

父の仕事の関係で、小学校4年から2年間アメリカで生活し、帰国後は帰国子女が集まる中高に通っていた。そんな幼少期と青年期だったから、ある意味、まわりの同世代からは鎖国状態にあったといえる。

大学は仏教系の大学に入学して、宗教を客観的に眺めることに面白みを感じた。一方、宗派の違いや宗教の違いを見つけては、「なんで、こんなに考え方が違うんだろ?」と素朴な疑問をもつようになった。30才半ばからは、学僧や仏教者が記した言葉や詩が心地よく受けとれるようになってきた。けれどもその受け止めはどこか「誰かに仏教を客観的に説明できる心地よさ」であって、仏教と僕の間には、隔靴掻痒(かっか-そうよう:痒かゆいところに手が届かないように、はがゆくもどかしいこと)の感がぬぐえなかった、と正直思う。靴の上から、足を掻くようなもどかしいことをしていたように思う。

そのころは「僧侶らしさ」っていうのは、誰かのためになることを全力でする、そんな行動の立派さだと思っていた。

けれども、最近になって「僧侶らしさ」っていうは「仏教を軸にものごとをとらえることのできる人」という見方に定まってきた。かけるメガネによって見える景色は違う。仏教というメガネをかけて、ものごとを捉えるところに「僧侶らしさ」がある。もちろん、行動や生き方も大事だけど、行動に基づくものごとの捉え方のほうが、より大事だと思うようになった。仏教のメガネは、諸行無常、諸法無我、他力、放下、執着、我執、利他、中道、菩薩道、四苦八苦…いろんな要素をそなえている。その状況に応じて、仏教ワードが駆けめぐる。

僧侶がビジネスをはじめると…

一方、テラエナジーに関わり、日が経つにつれ、そうした仏教ワードの登場回数が少なくなってきたことに気付く。会社でのコミュニケーションツールの多くは、数字と時間、それから規則や権利であり、その正確さが求められる。会社としては健全性を保つため、不可欠だ。

ただ、そういいながらも、仏教ワードが頭をよぎるときがある。それは「思い通りにことがすすまなかったとき」に多いように思う(もちろん、気分が浮き立つときもあるが)。

たとえば、人と接していると、この人「すごく苦手だなぁ」という場面に出くわすことがある。そんなとき、仏教ワード「怨憎会苦(おんぞうえく)」が登場する。「苦手な人と会わないといけないもんだよ」という意味である。ところが、次いで時間が経過すると、「怨憎会苦」が心に残りつつ、「虚仮不実のわが身」という仏教ワードが登場する。「自分のことばかりを考えてて、ものの真相が見えてない私」という意味。自分本位で、相手のことをちゃんと理解できていなかったのかな、という反省がエコーする。

そんな仏教ワード応酬をしていると、どうなるか。

現実の問題が、どんどん相対化されるのである。言い方を換えれば、現実がこれまでとは異なった仕方で立ち現れ、去ってゆくのである。

これはよいことなのだろうか。あるいは僧侶の悪癖といえるかもしれない。はたまた、かけてるメガネは、現状を受け入れて忘れさせる魔法のメガネかもしれない。

とにかく、そのように現実を受け止める自分がいる。

このあたりが僧侶が会社事業に参与するうえでの大きなテーマかなとも思うし、お坊さんらしさなのかもしれない。

本多 真成(ほんだ しんじょう)
1979年生まれ。大阪八尾市の恵光寺住職(浄土真宗本願寺派)。龍谷大学大学院を修了し、私立大学の客員教授をつとめる。院生時代は「環境問題と仏教」の思想史研究。専門は宗教学。TERAEnergy取締役。

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