ケーキと契機

今日は次女の5回目の誕生日だった。「よそ子の成長は早い」などとよくいうが、「ジブンチ」のこの成長も、間違いなく早い。年の離れた姉妹なので、長女は来年もう中学生になる。

驚愕。

この前生まれたと思ってたら、あっという間に中学生になり、今ではSNSでメッセージを送ってくる。

にしても、砂糖を過剰に使った生クリームを塗りたくったスポンジにローソクをブッ刺し、異国のメロディを大声で歌った後に、火を吹き消す(と字面にすると蛮習感があるが)という行為を、何も考えることもなく、誕生日が来れば僕たちは慣習的にこの儀式を行う。

よくよく考えると、意味がわからない。

僕は今年37歳になるのだが、この年になると「生まれてきたこと」をただ、ただ言祝ぐというのは、重要な儀式ではないかとも感じるようになった。

やれ仕事だ、やれ子育てだ。

SNSを通じて「今、私たちはこんなに頑張っている」と、(顔も知らない)他者からの承認がなければ、納得感が得られない社会に生きている。(御多分に洩れず、次女がろうそくを吹き消す様子をクローズドではあるが、嬉々としてSNSに投稿した父=僕である)

一方で、寺戸家は幸いにも、ケーキを買ってきて、プレゼントを渡すということはなんとかできるような家計状況ではあるが、ケーキが買えない、プレゼントを渡せないという家庭もあるだろう、ということも考える。

クリスマスやお正月のお年玉など、僕たちの住む日本の慣習の中には、儀式とともに何かプレゼントを渡すというものがあるが、格差が進む現代の日本では、どの家庭でもプレゼントを配れるわけではない。

NPO法人チャリティーサンタという団体があって、貧困状態にある家庭の子どもたちにプレゼントを届けているらしい。

社会的慣習(もはや慣習というよりは、商慣習に近いのだろうが)というものは、オートモードで行われる「せなあかんこと」として位置付けられているし、「せんかったこと」に、親は後ろめたさを感じてしまうのだろう。

もちろん、私にも子ども時代はあったので、自分のことを思い返すと、チャリティーサンタはとてもいい活動だと思いつつ、通底している「価値観」に目を向けてみたい。

周りがサポートをしてでも、クリスマスの慣習に沿わないと、消費を通じた儀式、それをしないこと自体が子どもたちが「可哀想な」体験をしてしまうという価値観について、だ。

同NPOは「経済的な格差が現れやすい行事」をターゲットに活動を行っているらしい。「合言葉は、あなたも誰かのサンタクロース」というキャッチがホームページには掲載されている。この贈与的な取り組みは、多くの賛同を得て、サンタは今日時点で「22,059」人もいるらしい。

日本には儀礼と呼ばれるものが数多くあり、それが商慣習と紐づいていくという流れがあったのだろう。ただ、資本主義の行き過ぎた現代では、「商慣習」が先にあり、「儀礼」の本来もつ意義に気を配る人はいない。(いたとしても、「もう古い」と一蹴されるだろう。)

社会学者の小熊英二は、文化のことを「慣習の束」であると呼んでいる。

日本は基本的には単一民族国家であり、ハイコンテキストな社会だ。日本の「慣習の束」は、大きなうねりとなり、グローバル化の波と合流し、工業大国としての新興を後押しした。

モノが飽和した今でも、「慣習の束」は流れを変えられぬサイズまで大きくなってしまっており、日本は「失わられた〇〇年」を更新し続けている。

2万人のサンタたちが贈与を献身的におこなっている一方で、格差は拡大を続けている。

サンタたちが増えることは、「贈与的な関係性を広がっている」と見ることもできるが、一方で、格差が広がり続けていることの証左にもなりはしないか。ものを買うことで何かを祝うことに、私たちは慣れ過ぎているのではないか。

そう考える一方で、この大きな「慣習の束」から爪弾きにされる経験は、子どもたちの経験を毀損する。疑問も持ちつつ、この価値観には一定の納得感もある。

二元論に落とし込まず、私たちがどんな「慣習の束」に編み込まれているかを、眺めるところから始めねばなるまい。

いや、そんなことをしている時間はあるのだろうか。時間の流れは、思っている以上に早い。

「よその子」だと思っているうちに、事態は進行し、知らぬ間に大きくなっている。

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