早く帰れとドヴォルザークが聞こえる
「パパ、今日は薄ーい夜だね」
「へーたしかに、薄い夜やなぁ」
日が延びた夏の夜だ
娘の中では、薄い夜、濃い夜という分類があるらしい
抽象的だが、あるものが、目的と違う用途で、長い時間使われていたことで、その「あるもの」に、本来と違う印象が紐付いてしまうことがある
それは、言語だったり、技術だったり、習慣だったりする
僕は、ドヴォルザークの「新世界より」を聴くと、「早く帰れ」と言われてる気持ちになる
閉館間際のデパートや、図書館などで、よくこの「ドヴォルザーク」がかけられるからだ
ぼくたち生物が、個体としての「生と死」というシステムを採択したのは、こういう「大人たち」のバイアスを取り去るためなんだろうか
娘の言葉を聴くと、いつもそんなことを考えさせられる
でも、やっかいなことに「社会」というのも、一つの生物のようなもので、慣性が働く
生まれ落ちたが最後、僕たちは、この慣性の渦の中に巻き込まれる
娘も、「ドヴォルザーク」聞いて、「早く帰れ」と感じるようになるのだろうか
僕たちが、どういう聞かせ方をするのか、子供達と、どう体験を共有するのかも、大事だよな
そんなことを考えながら、「薄ーい夜」に聞く「ドヴォルザーク」
それもまた、一興だったりもするのだけれど
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