見出し画像

東京大空襲 (中編)

私の周囲では、既に避難が始まっておりました。
否、「避難」などと呼べるものではありませんでした。
恐怖に混乱した者たちが、四方八方へと駆け出していただけです。

大人は、まだいいほうでした。
偶然、親から離れて行動していた子供たちは、無力です。
何が起こっているのかも分からず、立ち尽くしておりました。

その頭上からは、容赦なく爆弾が降り注ぎました。
男、女、大人、子供、何も関係ございません。
空襲とは、そういうものでした。

私の一町ほど先でうずくまっていた小さな少女。
彼女に、爆弾が直撃した光景。
今の今まで、忘れることができておりません。

その残酷な光景を目の当たりにして、私は我に返りました。
私も、いつああなるか分からない。
今は、逃げることに専念しなければならない。

彼女の死を悲しむ時間は、ありませんでした。
しかし、彼女に救われたのは、事実です。
今でも、彼女の冥福を祈り続けております。

私は、特に目的地もなく走り始めました。
ただ立っているだけでは、爆弾に当たるを待っているようなもの。
とにかく、走り出しました。

幾度となく、他人にぶつかりました。
幾度となく、子供を突き飛ばしてしまいました。
私には、何も余裕はありませんでした。

何が起きても、後ろを振り返ることはありませんでした。
何よりも自分の命が、貴かったのです。
醜かった自分を、お許しください。

何故あれほど息が続いたのか、分かりません。
ただ、走り続けました。
皆が向かう方向に、走り続けました。

私は何も気にせず走り続けました。
皆が、防空壕に向かっていたことにも気づかずに。
周囲の悲鳴、嗚咽、断末魔が私の神経を狂わせていました。

突然、腕を引っ張るものがあり、私は転倒しそうになりました。
それは、顔の焼けただれた男性でした。

耳鼻の形は醜く変形し、目玉が飛び出しておりました。
口から黒い地を垂れ流し、頭骨が露出しておりました。
声にならない言葉で、私に助けを請うておるようでした。

私は、あまりもの恐怖に、立ち尽くしました。
掴まれた腕が、猛烈に熱い。
彼の腕が焼けただれていたことに、漸く気付きました。

1分も経たなかったと、覚えております。
彼は力尽き、地面に倒れこみました。
もう意識は無いと思われましたが、体は痙攣を続けておりました。

私は多少の落ち着きを取り戻し、周囲を見回しました。
腕が、脚が、散らばっておりました。
頭の無い死体、胸に大きな穴が開いた死体。
微かに思い出すだけで、強い、とても強い吐き気を催します。

腕に、違和感を感じました。
視線を移すと、腕の一部が黒く、染まっていました。
否、染まってはいませんでした。

先ほどの男性の、ただれた皮膚が、こびり付いていたのです。
私は居ても立ってもいられずに、走り出しておりました。
ひたすらに、川の方向を目指しました。

何かに躓き、転倒したのを覚えております。
女児の、焼けただれた死体でした。

起き上がろうとした、その時。
その女児の辛うじて残っていた瞳と、目が合いました。
生きている私を、恨めしそうに見つめておりました。

涙する暇もなく、私は走り出しました。
どれほど走ったか、覚えておりません。
いつの間にか、川辺に立っておりました。

自分をなんとか落ち着かせながら、腕を洗いました。
爆撃音は、すぐ近くまで迫っておりましたが、腕の洗浄を優先しました。
「死臭」を、少しでも引き剥がしたかったのです。

何度も、何度も、洗いました。
ただれた肌は、もう流されました。
しかし、私は洗い続けました。

ふと視線を上に移すと、小さな小舟が見えました。
私は十分に混乱しておりましたが、ある考えが浮かびました。

爆撃が近づいてきたのを感じたら、水に飛び込めばよい。
爆撃は爆撃ですから、水の中にいてもそれほど違いは無い。
しかし、その時にすがれるものは、それだけでした。

その一晩を、小舟の上で過ごしました。
爆発音と、誰かも分からない人間の断末魔に包まれながら。
あれほど、恐怖に震えながら過ごした夜は、ございません。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?