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マンションの入り口で女の人が寝ていた話

とある金曜日の23時、飲み会を終えて帰りに自宅に帰ると、エントランスの床に巨大な「黒いもの」が落ちていた。

巨大な「黒いもの」

恐る恐る近づいてみると、巨大な「黒いもの」は、女の人だった。

これだけ存在感があると、逆に無視して部屋に帰る方が不自然に思えて、とりあえず声をかけた。

どうやら泥酔しているらしく、全然話が通じない。

僕「大丈夫ですか?」

黒い人「ん〜〜〜〜〜〜〜〜」

僕「このマンション住んでるんですか?」

黒い人「家賃〜〜〜〜〜〜〜」

何度も酔っ払って他人に迷惑をかけてきた僕としては、(わかるよその気持ち…)と思い、今日くらいは助ける側になるかと思って、水を買って復活を待った。

よくよく話を聞くと、

・好きな男の子と飲んでいて、喧嘩して飲み過ぎた
・その子はホストで、私はお客さん
・お店に通うお金が無くて、昼の仕事をやめて夜の仕事を始めた
・それでも足りなくて、借金もした
・ホストにハマって、昼の仕事をやめて、友達もいなくなった
・家庭環境も良くなくて、もうホスト以外は居場所がない
・「家賃〜」と言ったのは、もうこの家の家賃が払えないかもしれないから

いわゆる「ホス狂い」だった。

僕はホストでもなければ、周りにホストも「ホス狂い」もいないけど、自宅のエントランスで「ホス狂い」が寝ていることを、かなり冷静に受け入れていた。
多分、自分の仕事のおかげだと思った。


リディラバという会社で働いている。

「社会課題を、みんなのものに」というスローガンを掲げ、日本中の社会課題に対して、「課題を見つける」「見つけた課題を多くの人に知ってもらう」「知ってもらった先で企業や省庁と一緒に解決をする」という会社だ。

すごく簡単に言うと、社会課題の解決に向けて日々働いている。

リディラバで6年くらい過ごす中で、ありとあらゆる社会課題の当事者や支援者と話をさせてもらった。

例えば、痴漢を繰り返してしまう加害者の人から、自分が痴漢をする理由とは関係ないかもしれないが、子供の頃学校の先生からレイプをされていた、という話を聞いた。

聴力に問題は無いのに、その音を処理して理解することが難しい「APD」と呼ばれる障害を持つ人から、どうしても職場で意思疎通ができなかったり、聴力に問題がないんだから甘えだと言われたりする、という話を聞いた。

性別を問わず恋愛感情・性的感情を抱かない「アロマンティック・アセクシュアル」と呼ばれるセクシャリティの人から、LGBTの支援からも漏れてしまい、居場所を見いだせないという話を聞いた。

世の中には、課題を抱え苦しんでいる人がこんなにもいるのか。
そして、あらゆる課題に対して、支援と解決に向けて尽力する人がいるのか。

自分が生きてきたはずの社会は、自分の知らない苦しみに溢れていて、同時に自分の知らない救いの手によって維持されていると痛感する6年間だった。

だから、「ホス狂い」の女性がエントランスで寝ていることは珍しいとしても、僕のマンションに住む誰かが、何かしらの社会課題に苦しんでいるのは、ある意味「自然」だと思った。


思い返せば僕自身も、小さい頃から家族に問題があったり、故意ではない事故で他人の命を奪いそうになったり、最近そこそこの病気が見つかって手術をしたりした。

いま現在、心身の健康と衣食住にとりあえず問題がなく生活を送れていることが、当たり前だ、必然だとは全然思えない。

僕だけの話ではなくて、例えばこんなことが明らかになっている

・母親の約10人に1人が「産後うつ」の症状を抱える
・約2.5%の小中高生がいま現在不登校の状態にある
・シングルマザーの約50%が相対的貧困の状態にある
・約13人に1人がLGBTなどのセクシャルマイノリティ
・高齢者の約20%が認知症を抱える

僕はこれまで、家族に恵まれ、楽しく学校生活を送り、就職して働いて、経済的に自立して、異性を愛し、家族を持ち、子供が健康に育ち、最後は病院で看取られるような人生が「普通」だと勘違いしていた。

でも、普通の人生なんて、もうこの社会には無いんじゃないか。
普通そうに見えるこの人にも、自分が知らないだけで、何か抱えているものがあるんじゃないか。
そう思うようになってから、色々な変化が生まれた。

異性を愛することが普通とは思わなくなって、「彼氏いるの?」という質問をやめていた。

家族と仲がいいのが普通とは思わなくなって、「帰省しないの?」という話題は切り出さないようになった。

悲しい事件や事故が起きて、世の中が加害者を責め立てる時、加害者にも何か事情があったんじゃないかと想像するようになった。

エントランスで寝ていた「ホス狂い」の女の人には、信頼できる支援団体を紹介していた。

どれも、リディラバでの6年間がなければ、できないことだったと思う。


僕は「優しさ」とは人が生まれ持った気質で、一度「優しい人」優しくない人」に振り分けられたら、それ以降変わることがないものだと、なんとなくイメージしていた。

でも、僕自身はこの6年で、少なくとも言動や行動において、優しい人に変わっていったと思う。

「ホス狂い」の女の人に出会うのが6年前だったら、支援団体を教える代わりに、「借金はよくないからやめなよ」みたいな、本人に届かない言葉を伝えていたかもしれない。

優しさとは、意志であると同時に、知識でもあるんじゃないか。
社会について知ることは、いつか自分や誰かを救う優しさに繋がるんじゃないかと思うようになった。

「社会課題を知ったら、解決が進むんですか」みたいなことをたまに聞かれる。

その気持ち、すごくわかる。
知ることが大事、と言われても、自分が知ったところで、何が変わるんだろうか。社会課題は、政策や事業で誰か他人が解決するもので、個人には何もできない気がする。

実際、今この瞬間には、残念ながら解決に寄与しないと思う。

でも、とりあえず、知ったら優しい自分になれるとは思う。
周囲で誰かが課題にぶつかった時、助けられるかもしれないとは思う。


2018年、当時リディラバの学生インターンだった僕は、ある日突然「リディフェス」という年に1回のお祭り的なイベントを任されることになった。

イベント運営の全てが初めてだった。

セッション企画も、協賛も、集客も、登壇者とのやり取りも初めてで、自分の無力さを痛感しながら、自分にできることはなんだろうと思って、100人以上いる登壇者のHPやインタビューをとにかく見続けることにした。

「リディラバからの依頼なら」と言って、登壇相手も参加者の人数もわからないのに、二つ返事で全国から駆けつけてくれる人たちって、一体何者なんだ。

どんな課題のため、何をしてるんだ、せめてそれくらい、当日会場にいる誰よりも自分が詳しくなりたいな、と思って、毎日のネットで登壇者の名前を検索し続けた。

100名分の情報を見尽くした頃には、「いや、これは、マジで、この人たちの話を届けないと」という謎の使命感が生まれている自分に気付いた。

自分がのほほんと暮らす社会には、実は自分が想像もしなかった課題に苦しむ人がいて、その人たちを救うため人生をかけている人がいる。

うまく言えないけれど、これほど課題に溢れる社会で、僕がどの課題にも目を向けずに生きてきたのは、代わりに僕の分まで(そしてその他大勢の人の分まで)めちゃくちゃ大きな荷物を背負って、課題と向き合ってきた人がいたからじゃないか、という気持ちになった。

社会課題に関心がない。わかる。

でも、フィクションの映画で泣けたり、ルールも知ってるか怪しいスポーツに感動できたりするのが人間だとしたら、社会のため、無謀にも見える大きな課題に立ち向かっている人の話を聞いて、「聞かなきゃよかった、時間の無駄だった」とは思わないでしょうよ、と思った。
というか、「無駄だった」と思われたら謝るから、頼むから聞いてくれよ、と思った。

今年、コロナ禍での延期やオンライン開催を経て、3年ぶりに「リディフェス」を開催できることになった。

リディフェスで世の中が変わるかと言われたら、うーん、わからない。
少なくとも、いま課題に苦しんでいる人たちを救えはしない。

エントランスで寝ていた女の人にとって、「リディフェス」の有無は人生に影響しない。

リディフェスが最高の場になったとして、家賃が払えない時は払えない。もうエントランスで寝ている姿は見れない。

でも、同じマンションに住む僕たちにとっては、意味があるかもしれない。

僕が6年間で変わったように、今の社会を支えている人たちの声を聞くことで、いつか誰かを救える優しい自分になれるかもしれない、そう信じて、今年も準備頑張りました。

リディフェス、明日11月23日に新宿で開催です。来てください。


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