武蔵美での芸術教育に物申す!

どうも電柱治です。

先日、武蔵美の卒展に行ってきました。
他の美大の卒展も行きたかったのですが、知った頃には終わっていまして、
行けなかったんですね。
めちゃくちゃ悔しいですが。

なので、こうなったら武蔵美だけでも徹底的に味わい尽くしてやろうと思って。
数日間朝から晩まで入り浸りました。
挙句には搬出の作業まで手伝いました。笑

まあその話は置いといて。
その中で武蔵美生と話すことも多かったんです。
割と美大生の意見というものを目の当たりにする機会も少ないので、面白がってどんどん聞いてしまったのですが、その中で気になるものがありました。
ある女の子はこう言いました。


「もう武蔵美はオワコンである!!」


という意見。
ほう!!!!
まるで団塊世代というか、学生運動みたいじゃないですか。
なるほど面白そうだ。もっと聞いて見ました。

「武蔵美の指導方針は間違っている。このままではいずれ武蔵美は滅びるだろう。」

ふむ、教育方針。
具体的にはどういうこと?

「芸術というのは言語にできないようなことを、それでも表現したいから芸術というカテゴリの表現方法を取らざるを得ないじゃないですか」
「でも、学校は言語化をさせたがる。言語で説明がつくのであれば、芸術は必要ない。」

なるほどごもっともだ。

「先生は人間性ばかりを見て作品自体を見ていない」
「結果が酷くても過程がちゃんとしてればすぐ賞をくれる」

これは僕個人としては、作品は作者の生き写しなので作者の人間性を知っていればわかってしまうのも頷ける。
結果が酷くても、というのは伸び代があるということだろう。
ただ、基本的に芸術は結果である完成系を見て判断するので、そう言った文句が出ても仕方ないこととは思います。
裏で先生が生徒の人間性を把握してしまうことは、発売前のゲームの攻略情報を理入れるようなズルさを感じてしまうのもわかるんですよね。

さらに卒展に関しては、周りの生徒に毒を吐く人も。

「あの子は自分で作品を作っていない。あれはあの子の作品じゃない!」

「アイデアパクられた!」

なるほどすごいことになって来た。
ちょっと話が逸れてきましたね。


僕はこの中で、
「あの子は自分で作品を作っていない」問題に注目しました。

自分で作品を作っていなければ、その人の作品ではないのでしょうか?
例えば、高畑勲監督がいますね。もう亡くなりましたが。
彼は自分で作画を描いていません。
でも、それらは高畑勲の映画です。

つまり、「自分よりできるやつに任せたほうがより伝わる表現になる」という割り切りをしているんですね。
これに対して、先程の子は

「いや、その感情や伝えたいことはその人自身にしかわからないんだから、その人が作らないといけない!」

と言います。
この問題、どうしたらいいのでしょうか。


僕はこう考えます。


そんなもん分担すればいいじゃないか。


つまり、「自分より上手いやつに任せられる人」は、そもそもそんなに内なる伝えたい思いなんて無いんです。
だから、そうやって割り切れるんです。
そういう子は、「その人自身が作らないといけない」と文句を言っていた子のマネジメントに回ればいいと思うんです。

現代アーティストの村上隆はこう言いました。
「これからの芸術家は、プレゼンから営業まで自分でやらなければいけない」

僕は、これがいけないと思うんです。

餅は餅屋ということわざがあります。1人の人間にできることなんて、限られています。
「言葉にできないから、芸術で表現する」
その通りなんです。それを言葉にできたら芸術なんていらないんです。
それを、無理やり言葉にしてくださいって、酷なことじゃないですか。
めちゃくちゃストレスだと思います。

だから、さっき言ったように割り切れる人間とタッグを組むんです
その感情を表す言葉は存在しませんが、1番近いであろう言葉を選んでくれる才能のある人と。
わかりやすい例は、宮崎駿と鈴木敏夫です。どちらが欠けてもジブリは上手くいってないと思います。

例えば。
卒展で僕の知り合いが展示していました。
巨大な石の一部分を、丁寧に削って磨いてありました。
かと思うと、バランを養生テープで止めてあったり、マジックテープを小さく切ったのを積み上げてあったり、タオルの端の方をひたすら細かく縫い付けてあったり。
これが結構難解で、どこを取って見たらいいものか探っていました。
これらの作品群は、どこに共通点があるんだろうか。
考え込んでいました。
すると一緒に回っていた友達が、「なんだかヌルヌルしているね」と評しました。
なるほど!!!
その瞬間にちょっと腑に落ちました。
「ヌルヌル」なのか「ぬるぬる」なのかはわかりませんが、とにかくヌルっとしていると。でも、別にワカメやコンブみたいに本当にヌルヌルしているわけではありません。
ただ、その作品の気持ち悪さをあえて言葉にするのであれば「ヌルヌル」ということになる。
これはある種の割り切りです。
これを読んでいてもよくわからないと思いますが、削った岩もバランの養生テープも積み上がったマジックテープも縫ったタオルも、ヌルっとしているんです。

僕は「ヌルヌル」という言葉を通して、何となく作者がやりたいことや良さがわかった気がします。

このように、言葉は人に伝えるためには重要なツールです。
作品だけでは、ちょっと伝わりづらいこともあります。そいういう時に、言葉をきっかけにして理解を深めてもらうことができます。

武蔵美はどうも聞いていると、何が何でも言葉でまとめさせようとしてくるそうです。
作る過程を言語化しておくことをものすごく重要視する。
それって後出しジャンケンのような「ズルさ」や「あざとさ」を感じるから嫌だ。

凄くわかります。
これはだから、1人の人間がやろうとするからなんです。
1人で、ボケとツッコミをやっているような状態です。
変でしょ?
ボケは主観であるなら、ツッコミはあくまで客観である。
客観できているのに主観みたいなことをしていると、矛盾を感じますよね。
そこが、ズルいあざといといった感情になる。

じゃあやっぱり少なくとも2人は必要じゃないですか。

僕は武蔵美の教育方針の改善案としては、「全部1人でできるように」から、
「自分の役を把握していい相手を見つけて組む」にシフトした方がいいんじゃないかって思います。

作家タイプの人にはとことん制作ができる環境を提供してあげる。
プロデューサータイプの人には、今の武蔵美の授業でやってることで十分です。言語化する練習をする。

卒展は1人でやらせますよね。1人で一つの作品を作れ、というのが基本ですよね。
僕はそれはやめて、複数人で作ってもいいんじゃないかと思います。
複数人でやると、仕事をしない奴が出てくることを心配されますが、そこは大丈夫だと思います。
役がはっきりしていれば、サボったりできないですからね。

という感じで、卒展で聞いたお話から、武蔵美の教育方針に対しての野次を飛ばすコーナーでした。

ではまた。

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