虫のみる夢 4

  3

 感情がなくなってから、約一ヶ月が経った。
 大きな事件は、何も起きていない。日々淡々と同じことの繰り返しで、メールを受け取っては文章を書き、打ち合わせをして文章を書き、取材に行っては文章を書いた。それらは全て担当者の手に渡り、チェックされ、レイアウトされ、ウェブや本屋を通して読者の手元に届く準備をする。
 どれだけの人がタスクの文章を読んでいるのかはっきりとはわからないが、誰かのもとに届いているのは確かだ。
 感情をなくしてからの原稿の評価は、予想に反して悪くなかった。とにかく淡々と仕事をこなしたおかげで少しまとまった原稿料が入ったので、お気に入りのマッカランを買うことにする。
 正確に言うと、以前のタスクのお気に入りだったというべきか。あまり酒は飲める方ではないが、ウィスキーをストレートでチビチビと嘗めるのを好んでいた。
 つまみにはチーズを選ぶ。年代物のマッカランに合わせるなら、熟成したミモレットだろうか。以前そういう記事を書いたことがあったし、試してみたら確かに美味しかった。そうしよう。
 感情をなくして一ヶ月も経てば、こういうことをパズルを組み立てるように淡々と考えることに慣れてきた。
 以前のタスクは、酒を飲みながらとりとめなく考え事をしたりぼうっとしたり、色々想像することを大いに楽しんでいた。
 今はそういった喜びを感じることはない。それでもその頃の習慣を思い出しながら、マッカランとミモレットを買って帰ることくらいはできる。
 部屋に戻ると、キッチンでウィスキー用のカットグラスを取り出し、マッカランをストレートで一センチほど注ぐ。ウィスキーグラスとチーズをのせた皿を持って、ソファに座った。しばらく香りを嗅いでからチビチビとマッカランを嘗めて、チビチビとミモレットを囓る。
 マッカランを嘗めてミモレットを囓ったからって、ちっとも楽しくない。かといって、不愉快なわけでもない。
 今のように感情がなくとも、舌をチリチリと焼くようなアルコールの刺激は、それなりに悪くない感覚ではあった。
 それにこうやって以前の生活習慣を維持するのは、いざ感情が戻った時を考えると合理的な行動のように思えた。習慣というものをなくすと、人間は何をすべきかわからなくなってしまう。タスクは以前の生活習慣を覚えていて意識的に繰り返すことで、なんとか今の生活を保っていられる。
 そうして数時間が経って新しくわかったことがひとつあった。たとえ感情がなくても、酒を飲めば酔いは回る。そのうち、タスクの意識は、普段より数センチ上の空間を漂い始めた。
 ソファに足を上げ、ふわふわとした意識の中でチビチビとミモレットを囓りながら、昔、小学校で飼育していたハムスターのことを思い出していた。
 一心不乱にひまわりの種を食べて、一心不乱にホイールの中で走る。ひたすら食べて、糞をして、ホイールで走り、寝る。それだけを、毎時間、毎日、毎週繰り返す。
 ふわふわの毛玉。
 やれと言われれば、今の自分にも真似できそうな気がした。というよりも、タスクの今の生活自体が、彼らと何ら変わりはないように思えた。
 ただ一点を除いて。
 自分がハムスターに劣っているのは、セックスに興味を持てないところだ。その点において、彼らはタスクとは比べようもなく、強靱に、強欲に、自由に生きていた。それに比べて今の自分はどうなのだろう。
 生きる気力がないというわけではない。それでも、生きようというだけの気迫がないのも確かだった。たまたまそこにあったホイールを惰性で走り続けている。死ぬことは怖くない。ただ、死ぬことにさえ興味がないだけだ。
 グラスをコーヒーテーブルに置いてソファに寝転ぶと、何気なく顎を触った。髭が伸びていた。
 数日の間、部屋に引きこもって仕事をしていたせいで身の回りのことに無頓着になっていたらしい。そんなことにも気づかなかった。気になるわけではないが、打ち合わせや取材をする上で、多少の不都合はあるかもしれない。仕事相手に不愉快な印象を与えるわけにはいかないことくらい、感情がなくてもわかる。
 ソファから立ち上がると、洗面台へ向かった。鏡に映る顎髭を色々な角度からじっくりと見つめる。この髭の伸び具合からすると、三日程手入れをしていないだろうか。いつ髭を剃ったのかも忘れてしまっていた。理髪店で熟練の職人に任せて剃ってもらってもよかったが、そうしてもらったところで特別な清々しさや満足感を得ることはできないだろう。無駄なことはよそう。
 カミソリを取り出して、シェービングジェルを顎につけ、ひと剃りする。カミソリの刃を替えたばかりなので、切れ味は良い。髭は細く柔らかい方なので、力を入れなくても綺麗に剃れた。シェービングジェルを綺麗に洗い流して、改めて鏡を見る。
 頬が痩け、顎のラインが細くなっている。少し痩せたようだ。じっと見ていると、本当に自分の顔かどうか分からなくなった。そこにはぼんやりとした目の少し痩せた無表情な男が映っていた。これが自分の顔だろうか。だんだん自信がなくなってくる。
 鏡に映っているのだからこれが自分の顔には違いないのだが、どうにも確信といったものが見当たらない。ひょっとしたら透明なガラスの向こうにタスクにそっくりな人間がもう一人いて、タスクの顔や手の真似をしているのかもしれない。妙な違和感にとらわれてしまう。だが、そんな気分だって長持ちしない。
 濡れた顔をタオルで拭って、またソファに横になった。目をやると、コーヒーテーブルにはグラスがポツンとあり、グラスの底には薄くマッカランが残っている。
 入稿は済ませて他に急ぎの仕事もなかったので、再びチビチビとすすった。寝転がったまま酒を飲むなんて、最高に(最低に)自堕落な姿勢だ。普段ならしないそんなことも、今ならできる。だからといって、楽しくも辛くもない。ただ寝転がって酒を飲んでいるだけだ。
 テレビをつけると、日本語吹き替えのハリウッド映画が放送されていた。
 タスクは、映画の吹き替えが苦手だ。いや、苦手だった。役者の生身の骨格と筋肉、本来そこから放たれるはずの声と、吹き替えの声がちぐはぐだからだ。ちぐはぐな声では、そこに乗っかるはずの心情もちぐはぐになってしまう。もちろん中にはぴったりはまっている声優もいる。ごく稀にだが。もっとも、それはそれで、何だかドッペルゲンガーが喋っているような気がして、あまり好きになれなかった。
 いずれにしても、そんなことは今のタスクにとって気にもならなかった。マッカランを嘗めながら、ただ映画を眺めた。
 特別に面白くもないが、面白くないこともない、世間的な評価では超大作というタイトルだった。たくさんの予算と人材を投じた娯楽の集大成。だからこそ、観た者の感情をあらゆる方向に振り回す力が生まれるのかもしれない。
 だが、作品にどれほどの力があったとしても、今のタスクの感情が振り回されることはなかった。監視カメラのような目で、じっとテレビを見つめる。

  人が大勢死んだ?
  ビルが爆発した?
  車が空を飛んだ?
  なるほど
  どうせ作り物なのだ
 
 榊タスクの固まった心が動き出すことは、ついになかった。


  4

 翌日、改めて髭を剃ってジャケットを着ると、打ち合わせのために資料と財布、スマホを入れたバッグを持って部屋を出た。鍵を閉めて、ズボンの左ポケットに入れる。
 待ち合わせの店までの道順は頭に入っているので、そのまま近場の駅まで乗り継いで行くつもりだった。
 風もなく、暖かな日だった。だがタスクにとってどうでもいいことだ。
 駅前の広場を過ぎると、地下鉄の案内が見えてきて、地下に通じる階段を下りた。階段には誰もいない。タスク一人が階段を下りている。
 すると、突然物凄い突風がタスクを襲った。
 地下鉄などで電車が出入りした際、強い風が出入りすることがあるが、その比ではない。身体ごと吹っ飛ばされるような強風だった。もちろん目など開けることができず、真っ暗な中で必死に手すりにしがみついた。
 突風はあっという間に過ぎ去って、タスクは取り残された。多分髪の毛は、ぐしゃぐしゃになっているだろう。目を開けると、やはり他に階段を使っている人はいない。髪とジャケットを整えて、資料がなくなっていないことを確認すると、階段をゆっくり下りた。
 ピッ
 改札にICカードを翳す。
 改札を抜けた少し先に、緑色の尖った棒が見えた。それがふいに顔面に迫ってきて、反射的に避けた。姿勢を戻してから、緑色の棒を持った人を少し振り返った。その人は、左右から同じように、緑色の棒を突き出しているようだった。
 混雑する時間帯だというのに、厄介なものを持ち運ぶ人だ、とタスクはぼんやり考えた。

  カチカチカチカチ

 高い音が駅のホームに反響する。

  カチカチカチカチ

 硬いものを小刻みにぶつけているような不思議な甲高い音だ。それは、緑色の棒を持った人の方から聞こえてくる。
 彼――多分男だ――は薄茶色のコートと、同じ色の帽子をかぶっている。よく見ると緑色の棒からは、細かい棘がさらに生え、その棘はまるでそれぞれが意志をもっているかのように、バラバラに動いていた。

 まったく……まったく……
  今日も残業だ……
  まったく……まったく……

 どこかから声がする。カチカチという音の間に声が聞こえた。声を出しているのも、この男だろうか。
 さりげなく一歩前に出て、電光掲示板を見るふりをして男の顔をチラリと見た。

  虫だ

 男と思っていたのは、人でさえなかった。
 巨大な虫がコートを着て、帽子をかぶって、駅のホームに立っていた。身長は、タスクと同じくらいだろうか。普通の虫よりずっと大きいせいか、細かいところまでよく見える。
 色は鮮やかな緑、いや、黄緑色をしている。緑色の棒のように見えたものは、その虫の帽子の脇から飛び出した二本の触角だった。細く尖った頭や手足の形からして、バッタか、その種類のどれかだろう。一口にバッタといってもたくさんの種類があるのだ。
 タスクはひとまず、それをサラリーマンならぬ、サラリーバッタと呼ぶことにした。一歩下がって、サラリーバッタの横に立つと、もう一度その横顔をまじまじと見た。バッタの顔をこんなに大きく見たのは、初めてだった。
 大きな眼の中にポツンとある意外とつぶらな瞳、細い頭部、尖った顎。精密な機械のような、完成された造形だった。
 表情は読み取れない。
 タスクはもちろん、これまで虫の表情を読み取ろうとしたことなどなかった。
 サラリーバッタは「カチカチ」と顎を鳴らしながら、もぞもぞと脚を動かしていた。短い手のような脚が四本、長く折りたたまれた頑強そうな脚が二本。手足の先は鈎状になっており、そこに器用にビジネスバッグの取っ手を引っ掻けている。
 風が吹く。それに合わせて、ピンと尖った触角の先端がユラユラと揺れる。
 アナウンスが流れるが、早口で、加えて妙にこもった不明瞭な発音のせいで、何を話しているのか聞き取れなかった。やがて電車が轟音を上げて滑り込んできて、大きな音をたてて急停車した。普段と比べれば、随分乱暴な運転だ。
 ドアが一斉に開く。
 タスクは、一歩下がった。
 電車の中には、大きな芋虫がいた。鮮やかな緑色をしていて、あちこちへ頭の向きを変えている。丸い頭部に黒いつぶらな瞳がついているが、やはり何を考えているのかは読み取れない。草を食むための大きな牙が、柔らかそうな身体と不釣り合いに頑丈そうで、ギラギラと光っている。
 大きさは人間の大人と同じくらいだろうか。それが、電車の天井のあたりまでみっしりと詰まっていた。名前は忘れたが、蝶の幼虫だ。
 幼い頃、田舎に住む母方の祖父の家に遊びに行った時に、畑や森に遊びに連れ出してくれた祖父に教えてもらった。幼いタスクは、怖さ半分ながらも飽きずによく眺めていたものだ。
 その見知ったはずの幼虫が、今はタスクと同じぐらいの大きさになって、きちんとジャケットを着て縦に詰まっていた。芋虫は、数匹がぞろりとホームに降り、器用に立ち上がってうねうねとくねりながら改札へ向かっていった。
 件のサラリーバッタは、車両に満杯になった芋虫の中になんとか身体を埋め込もうと、悪戦苦闘している。見ての通り満員だ。
 いや、満員という域はとうに越えていた。まるで、どこまで無理して詰め込めるかのギネスチャレンジのような、おなじみの朝の通勤ラッシュだった。
 タスクも、なんとか芋虫の中に身体をねじ込む。膨らんだり縮んだりする、ぶよぶよした身体が体中に触れるが、まあ芋虫だからそんなものだろうと思う。多少ぬめっとはしているが、幸い、濡れたりべとつくような感触はない。
「押しますねー」
 駅員の洋服を着たバッタが、タスクの背中を押した。こちらはサラリーバッタとは違う種類で、頭部が大きく四角になっていて、角は丸かった。
 駅員バッタの細い手先が、ぐいぐいと食い込みながら背中を押してくる。そうしてタスクを芋虫の電車の中になんとか収めて、ドアが音をたてて閉まった。少し間を置いて、電車は動き出す。
 見ると、サラリーバッタも、巨大芋虫の中で斜めになって挟まっていた。細い手先が折れてしまうのではないかと思ったが、何とも器用に折りたたんでいた。そんな彼は、電車に揺られる度に、徐々に芋虫達の中に埋もれていった。
 タスクが乗ったのはひと駅で、三分ほどで到着するのだが、感情のないタスクにもその間はなかなかの苦行だった。押し合いながら前後左右に揺すられて、単純に息が苦しかったのだ。気持ちはというと、たとえこんな状況にあっても、相変わらず微塵も揺らぐことはなかった。
 電車中が芋虫に埋め尽くされているからといって、何だというのだ。ただの大きなバッタと芋虫ではないか。
 もちろん、タスクにだって、何かしらおかしなことが起こっていることくらい分かっていた。以前の彼なら、巨大な虫を目の前にして冷静ではいられないだろう。驚いて、怖くなって、パニックを起こしていたかもしれない。世界の終わりだ、いやむしろ始まりかもしれないなどと言いながら、そうやって右往左往するか、ただぼうっと立ち尽くすか、それとももっと想像できないような反応をするかもしれない。
 だが、今は何も感じない。
 人のかわりに虫がいる。ただそれだけだ。特に危害を加えられるような様子もない。それなら、どこに問題があるというのだろう。
 例えぎゅうぎゅうに詰め込まれて、身体のあちらこちらに芋虫のぶよぶよとした部分が触れても、全く平気だった。それでも、やはり苦しいものは苦しい。膨れ上がった芋虫のせいで、腹と背が圧迫される。
 また、時折どこからか飛び出してくるサラリーバッタの緑色の足を避ける必要もあった。これでは、歩いた方がよほど楽だったに違いなかった。だが、今更降りることもできないので、駅に着くのをただ待つしかない。
 しばらくして次の駅に着いて、ようやくホームに降り立つと、よろめくタスクを押し流すように、何匹もの芋虫がのしのしと歩いていった。タスクもなんとか外に出て、ようやく呼吸ができた。
 サラリーバッタも無事に降り立ったようで、折れた脚をブラブラさせながら(少し無事ではなかったようだ)急ぎ足で歩いて行ってしまった。しばらくして、ホームから虫達の姿が消えていった。
 タスクは、自分が見たものを改めて思い出しながら、ああ、バッタと芋虫がいたなと考えた。どうもおかしなことが起こっているのは明らかだった。それも、圧倒的なレベルのおかしさだ。驚きがないのもあって夢でも見ているのではないかと試しに手の甲をつねってみたが、普通に痛かった。
 駅のホームに立ったまま、タスクはしばらく考え込んだ。それから「ふん」と声に出してみた。だが、そんなことをしたところで原因も対策も分からなかった。誰かに相談しようにも、そもそもこれがどういう事態なのか、タスクには説明する言葉さえ見つからないのだ。
 もちろん、突然周りの人が虫になってしまったら、というノウハウ記事を過去に書いた覚えも読んだ覚えもない。こんな時にどうふるまうのが適切なのか見当もつかない。
 とはいえ、こんなところでぼうっとしていると待ち合わせの時間に遅れてしまう。遅れること自体に罪悪感はないが、時間に遅れない方がトラブルが少なくてすむことくらい理解できる。
 今はとにかく、目的地に急ぐことが理にかなっているように思えた。早足で、駅ビルの中を進む。改札を出ても、状況は変わらなかった。すれ違うのは、灰色っぽいコートやジャケットを着たバッタ達。さっきのサラリーバッタとは、それぞれ違う身なりをしている。バッタの種類も違うようだった。茶色が混ざっていたり、頭部が小さかったり大きかったり尖っていたり、様々だ。バッタ以外の虫もちらほら見かけた。
「いらっしゃいませー」
 駅ビルで甘い匂いを漂わせるスイーツ店のスタッフは、蟻だった。巨大で黒い光沢を放つ蟻だ。ピンクのフリルつきエプロンをつけて、鼻にかかった甲高い声で呼びかけている。蟻といえば、甘いものが好物だ。妙に納得した。売っているスイーツもきっととても美味しいに違いない。
 足を止めてしばらく眺めていると、やはり店に立ち寄るのは蟻がほとんどだった。体表が黒かったり赤みがかっていたり、大きかったり小さかったりサイズの違いはあっても、甘いものが好きなのは変わらないようだった。眉間の上に生えた触覚を揺らしながら、数本の腕を動かして注文しているようだった。
 それだけ人気ならタスクも食べてみたいと思ったが、時間がなかったのでその場から立ち去ることにした。地上へ出て、しばらく歩いた。 待ち合わせのカフェを目指して歩きながら、時折すれ違う虫を横目でチラチラと見る。
 祖父からもっと昆虫のことを聞いておくべきだった。いや、今からでも遅くない。図鑑でも購入して、調べてみればいいのだ。
人間サイズの昆虫が器用に二本脚で歩いているのを見て、やはりあの細い脚二本では太い胴体を支えるのに無理があるのではないかと思ったが、皆、特に不具合はない様子で、器用に歩いている。追い越し、すれ違いも楽々こなす。
 虫達に気をとられながらも、なんとか約束の時間に間に合って、カフェに入る。
 店内を見渡すと、すぐに一本の腕が上がって、タスクを招くようにフワフワと揺れた。その腕は、少し太めで、白く柔らかそうな毛がびっしりと生えていた。タスクより先に待ち合わせの相手を見つけた担当者に違いない。
 タスクはそのフワフワを目印に、カフェテーブルの間を縫うように通り抜けた。椅子から大幅にはみ出した胴体を除け、突き出された長い脚をまたぎ、羽をそっと押しのけながら前に進む。
 なんとか腕の持ち主の手前まで来ると、持ち主の全体像が見えた。
 白くフワフワと揺れる繊毛に覆われた羽と、太い胴体をもっていて、アーモンド型の黒く神秘的な複眼がこちらをじっと見つめている。幅の広い触覚が左右に広がって、ゆらゆらと揺れている。フワフワした襞(ひだ)のようなものが触角に生えている。触覚の広がりが照明に透けて煌めいて、とても綺麗だった。
 タスクを待っていた担当者は、蚕(かいこ)だった。人間が手をかけてあげなければ生きていけない、か弱い虫。絞りたての乳のように白く、煌めきとフワフワに包まれた蚕は、どこか神々しくさえあった。
 タスクはそつなく挨拶をして蚕の向かいの席に座ると、「今一人でいきたいバー」なるタイトルの資料を取り出した。
 水を持ってきてくれた蟻のウェイトレスにコーヒーを頼んで、資料を蚕――担当者――に渡した。担当者の表情は分からないが、フワフワとした手足を使って器用にページを捲り、熱心に資料を読んでくれているのは分かる。反応としては悪くないようだ。
 担当者が資料を読み込んでいる間、タスクはカフェの内部をそっと見渡した。

  あれは、なんという虫だったかな
  海の側によくいる
  ザワザワと騒がしい波打ち際で
  テトラポットや岸壁で見かける
  ああそうだフナムシだ
  そういえばこの近くに美味しい魚介丼を出してくれるお店がある
  もしかしたらあそこの人かな
  あっちのは、ダンゴムシだな
  身体を丸めながら、器用に椅子に座っている
  コーヒーを飲む度にぐらぐらして、今にも椅子から転げ落ちそうだ
  ダンゴムシだからきっとコロコロとどこまでも転がっていくのだろう

 間もなく蟻のウェイトレスがコーヒーを持ってきてくれたので、ひとまず虫を観察するのをやめた。ウェイトレスはコーヒーのソーサーを器用に摘んでそっとタスクの目の前に置くと、きちんとお辞儀までしてくれた。礼儀正しいウェイトレスだ。
「もっと個性的な感じのお店でもいいんですけど、どうですか? ありますか?」
 蚕――担当者がゆったりと言った。
 タスクは考える。今回はあえて候補から外した少しトリッキーなバーを選んでみてもよかったかもしれない。改めて取材をしてみよう。
 担当者も考え込んでいるのか、無意識なのか、触角が左右に広がったり狭まったりする。左右に飛び出た手は、ゆっくりと上下する。何かを誘うように。
「わかりました。ちょっと調べてみます」
「文章の雰囲気はいい感じですね。私好みでもあります」
「はい、ありがとうございます」
「よろしくお願いします」
その後、二、三言葉を交わして、それで打ち合わせは終了だった。メールのやりとりでも十分な内容ではあったが、顔を合わせておくと後々の仕事がやりやすくなる。そういうことは今も以前もあまり変わらず、まめにすることにしている。
 少し――いや、かなり――奇妙な経験をしたが、とにかく無事に打ち合わせは終わった。
後は自由だ。少し身軽になってカフェを出て、周囲を見回した。繁華街の昼間ということで、随分混み合っていた。
 人、人、人、人。
 もとい。
 虫、虫、虫、虫。
 見慣れた景色の中で、人であったはずの部分だけが、すべてが虫だ。バッタや芋虫だけでなく、様々な種類の虫が道を埋め尽くしていた。顔をみてもタスクには彼らが何を考えているのか分からない。その虫達が、それぞれの用事で、歩き方で、道を行ったり来たりしている。
 虫がリアルすぎることを除けば、まるでテーマパークの世界だ。自分以外が動物だったり虫だったりなんて、ファンタジーでしかない。だが、実際に虫に取り囲まれて生活するのと、好きな時間だけ世界観を遊べるファンタジーとは性質が全く異なる。
 さて、これからどうしよう。
 直帰しても良いのだが、少し街を歩いてみようか。それともさっそくバー巡りでもしてみるか。行き来する虫達を観察してみるのも、面白いかもしれない。
 面白い?
 
  僕は今〝面白い〟と思ったのか
  そんなことさえわからない
  霧につつまれた真っ只中に立たされているようで
  どこを見てもつかみ所がない
  〝面白い〟を捕まえるために重くてひどく怠い両手を上げてみる
  指先は空を切り目指したところへさえも届かない

 もう一度その感覚を思い出そうとしてみたが、微かな揺らぎの感触はすでに淡く小さな泡のようになって消えてしまっていた。溺れた時のようにもがいてそれに手を向けてみても、指の間からすり抜けてつかむことはできない。
 まあいい。
 タスクはもうそれ以上手を伸ばさなかった。執着し続けるには、タスクの感情は限りなく鈍いままだった。とはいえ、何かしらの兆候があったのは確かだ。こうして歩いていれば、あるいはまた何かが起こるかもしれなかった。

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