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レモン

「レモンってどう思う?」
 不意打ち。ちょうどそう考えていた時に彼女に言われて、僕は牡蠣の殻を掴んだ手をとめた。
「レモン?」
「ええ、レモンよ」
 彼女はそう言って、レモンを搾って、生牡蠣をちゅるりと吸い込んだ。そして恍惚の表情でゆっくりと咀嚼する。
「レモンよ」
 牡蠣をじっくりと味わって飲み込んでから、彼女が改めて言った。
 僕は牡蠣をすすって舌の上で転がしながら、鼻から抜ける潮の香りを楽しんだ。一方で、彼女の質問の意図を探る。
 彼女はちょっとした爆弾のようなもので、ヘタな答え方をしようものなら集中砲火にさらされる。ここは慎重に言葉を選んだほうがいい。
「いいと思うよ。生牡蠣に合うしね」
 それに黄色い。それは余計なことだったので、言わなかった。繊細な味わいのシャンパンを口に含んで、牡蠣とからめて飲み込む。胃の腑に牡蠣の白い味わいが広がる。
 彼女は砕いた氷の上に乗った殻付きの牡蠣へじっと目線を落として、深い溜息をついた。絞り尽くされたカットレモンが、皿の上に積み上げられている。
「そういうことじゃないのよ」
 彼女はきっぱり言い切った。
 どう答えたら正解だろう? もうひとつの牡蠣に手を伸ばしながら、少し考えてみる。
 彼女はとても複雑で、神秘的だ。切れ長の目からもそれはうかがえる。どこか憂いを帯びて、一言一言をはっきり言う。
 彼女が「今夜、牡蠣を食べない?」という連絡してきた時、僕はバターをのせたトーストと濃い目のコーヒーを飲んでいた。朝だったのだ。朝の六時過ぎ。連絡するには早すぎる時間だけど、彼女には関係ない。以前は夜中の二時に電話を鳴らしてきたこともある。
 いつも不意打ちで、一ヶ月も音沙汰がないかと思えば、三日連続で電話をかけてくることもある。それは単なるとりとめのない話だけだったりもするし、今回のようにどこかへ何かをしに出かけようと言い出すこともあった。
 僕はそれを断ることが出来ずに(断る理由も特にない)彼女の言うがままに指定されたオイスターバーへ向かう。
 彼女は真っ赤なワンピースを着ていて、身体のラインがはっきりとわかる。スレンダーでボリュームはないが、十分に魅力的だ。背は少し低いが、モデルをやっていてもおかしくない。
 そんな彼女は今夜、待ち合わせ場所のバーに先に着いて、カウンターでマティーニを飲んでいた。
「待たせたかな」
「いいえ。先にきて、一杯やっていたの」
 彼女はそう言って、ボーイにレストランのテーブル席に案内させた。すごく手慣れた様子で、ボーイも彼女にそうされることを喜んでいるようだった。
 彼女は椅子にゆっくりと座ると、長い足を組んだ。ジミー・チュウ。彼女のお気に入りのブランドだが、いささかヒールが細すぎる。あのヒールがこめかみに突き刺さる様子を想像して、少しぞっとする。
「どれくらい食べるかしら?」
 彼女はまずそうきいておいて、さっさと注文を済ませてしまった。きいたのは社交辞令よ、という風に。飲み物は、シャンパンだ。
 テーブル席には、蝋燭が銀の燭台に灯っていた。暗すぎず、かと言って興ざめするような明るさでもなく、僕の好みだ。人が一番魅力的に見える灯り。この店のマスターはよくそれを知っている。
 シャンパンと牡蠣が届いて、さっそく牡蠣を手にとった。氷の上にのせられた牡蠣はよく冷えていて、つやつやと光り輝いていた。シャンパンの香りも申し分ない。シャブリでもよかったが、彼女は牡蠣を食べる時はシャンパンと決めているらしかった。

「レモンってどう思う?」
 牡蠣をふたつほどシャンパンで流し込んだ時に、彼女がきいた。彼女はレモンをきゅっと搾って、牡蠣にかける。それからちゅるりとすする。
「いいと思うよ」
「そういうことじゃなくて」
 どういうことだろう。答えが見つからなくて、もうひとつの牡蠣に手を伸ばす。
 その手を、彼女が掴んだ。ひんやりとしていて、しっとりとなめらかな肌触りだ。
「牡蠣って魅惑的よね?」
「そうかもしれない」
「とてもセクシーな食べ物だと思うの」
「そうかな」
「そうよ」
 そう言って、彼女は牡蠣の殻を持ち上げて、虹色に輝く内側を指先でなぞった。ボルドーカラーのネイル。よく似合っている。
「白くて、つやつやして、とてもセクシーだわ。なのに、どうしてレモンなんかかけなきゃならないのかしら」
「美味しいからかな」
「そうね、でも、レモンなんかかけなくても美味しいと思うの」
「じゃあ、かけなきゃいい」
 シャンパンを注いで食べる方法もある。だが、それは正解ではなかったらしい。
「牡蠣は牡蠣だけ、白いまま、かまずに飲み込むの。喉が上下するでしょう。食道をするりと滑り降りて、赤い胃を白くするの」
 胃は赤いのか。胃の形を思い出して、赤く塗りつぶしてみる。僕はすぐに妄想に走ってしまう。悪いクセだ。
 彼女は牡蠣を食べてもなお赤い唇で、シャンパンを少し飲んだ。グラスに口紅はつかない。好ましい。
「レモンをかけると美味しいわ。でも、牡蠣に添えるには無粋すぎると思うの」
「無粋」
「そう、無粋よ」
 彼女の爪先が、とんとんとテーブルを叩く。
 気配もさせずボーイがやってきて、空のシャンパングラスを満たした。僕は手でふたをして、十分であることを伝える。
「牡蠣だけなら真っ白で輝いていて、素敵なのに」
「素敵」
 食べるものが素敵である必要はないような気がしたが、彼女にとっては重要なファクターなのだろう。
 僕はパスタを作る時に、セクシーだとか粋だとか素敵だとか、そういうことを考えながら作っているだろうか? 
 作っていない。
 新鮮な素材を使ってソースを作り、パスタ鍋でパスタを茹でているあの時間は、無心になる。セクシーでも、粋でも、素敵でもない。ただのパスタだ。
 彼女は新しい牡蠣をついとすすると、淡いピンク色の舌で赤い唇をなめた。
 僕はスモークされたサンマをつまんで、味わった。サンマは舌の上でひんやりととろける。桜のスモークの香りが鼻腔を抜けた。
 彼女はもうひとつ、牡蠣をすすった。一体いくつ食べるつもりなのだろう? 牡蠣の殻は山積みになる前に、ボーイによって下げられてしまう。そして新しい皿がやってくる。3つの大きな牡蠣が氷の上に乗って、真珠のような輝きを放っている。
 彼女は夢でも見ているかのように半眼になって、牡蠣を眺めていた。少し、酔っているのかもしれない。
「レモンのことよ」
 皿の上に牡蠣と共に盛り付けられた黄色いレモンを見つめて、彼女が呟いた。
 僕は黙ってレモンを自分の皿に移した。
 彼女は名残惜しそうにそれを見つめる。
「これでいいんじゃない?」
「そうね。レモンのない牡蠣。いいかもしれないわ」
 彼女はそう言うと、目を閉じた。長い睫毛が蝋燭の灯りで影を落とす。
「酔ったみたい」
「そうだね」
「ホテルまで送ってちょうだい」
 彼女はクレジットカードを取り出すと、テーブルの上においた。これで支払ってこいということだ。彼女が誘った時は素直に彼女に支払ってもらうことにしている。そうじゃないと、彼女が選ぶお店でいつも僕が支払っていたら、あっという間に破産してしまう。
 僕は指を上げてボーイを呼ぶと、会計をお願いした。彼女のクレジットカードを持って、ボーイが恭しく下がる。
 クレジットの精算が終わるまで、彼女は一言も話さなかった。
 食べられなかった3つの牡蠣。破棄されてしまうのだろう。せっかく育ったのに、残念なことだ。こういうことは、彼女は考えないだろう。レモンのことで頭がいっぱいなのだから。
 足元がおぼつかない彼女をタクシーに乗せて、彼女が住むマンションがある住所を運転手に伝えた。タクシーが、音もなく滑りだしていく。彼女が僕の肩に頭を乗せた。半ば眠っているようだった。
 レモン。
 レモンについて考えることはもうやめよう。
 白い牡蠣が素敵だということがわかっただけで十分だ。

――了――

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