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Cinderella shoes

 はじめて行くファッションビルは好きだ。何もかもが新しくて、店舗のスタッフも初々しくて、やる気に満ちている。
 新品のペンキや什器の匂い好きだ。
 〈できたて〉という感じがするからだ。
 目新しいショップが並んで、見ているだけで飽きない。
「靴が欲しい」
 フロア二階にわたって広がる真新しいシューズショップで足をとめた。
 布、ゴム、皮、エナメル、プラスティック、色々な素材の匂いがする。シューズショップ特有の匂いだ。
 今いるのはメンズフロアなので、ゴムや布の匂いが強い。棚に並んでいるのも、シンプルなスニーカーから奇抜なデザインの革靴まで、様々だ。
「レディスは上だね」
 彼がそう言って、優しくエスコートしてくれる。まるで英国紳士のようだ。
「あなたのセンスに任せる。よさそうなのを探して」
 時々そうするように、彼にそう言って甘えた。彼はすごくセンスがいい。それに、いつも私が選ばないようなデザインのものを選んできて、半信半疑で試着してみるとそれがすごくよく似合う。だから、今回も彼に任せた。
 彼は笑うと、一変して真剣な顔で靴を眺め始めた。
「そこはメンズのフロアだよ?」
「いや、ショップの感覚をつかもうと思って」
 そう言って数点眺めて、
「よしわかった、上にいこう」
 いつもの自信に満ちた声だ。頼もしい。
 エスカレーターを上る間も、ショートブーツで、ヒールのあるものがいい、など最低限の要望を伝える。彼は宙を見つめて、考えをまとめているようで、しばらくして「うん、イメージできた」とうなずいた。
 レディスのフロアに着くと、メンズフロアとはまた違う匂いがする。
 いい匂い、だ。
 たぶんスタッフの香水とかが混ざっているのかもしれないけれど、とにかくなんとも言えないいい匂いがするのだ。
 素材の匂いも、硬質なものになる。もちろんゴムっぽいのも混ざるけれど、見渡すと全体的にキラキラ、ピカピカと輝いて、宝石がずらりと並んでいる気分になる。
 什器も靴も、輝いている。女はどうしてこう、キラキラしたものに弱いのだろう。
 胸がうきうきとしてきて、ひとつひとつ眺めて回る。彼はすっといなくなって、すぐに私の希望の靴を探しにいった。彼はどんなに離れてもすぐに私を見つけて戻ってくる。私が場所を移動していてもだ。だから安心してぶらぶらと靴を見て回った。
 しばらくして彼が持ってきたのは、真っ赤なエナメルのショートブーツだった。
 色の派手さにも驚いたけれど、もっとも特徴的だったのはつま先だった。
 基本的にはポインテッド・トゥなのだけれど、そのとがっているべき先端が少し膨らんでいて、まるで平たいおたまじゃくしの本体のようになっている。
「ちょっとこれは……」
 完全なポインテッド・トゥなら、色も好きだしエナメルという普段選ばない素材も気に入った。ベルトがついているのもいい。ヒールの高さも丁度いい。
 でもどうしても、つま先のデザインが気になった。
「これ、変じゃない?」
「いいから」
 そういってしゃがみ込むと、彼はテキパキと試着させてくれる。
 履き心地は、良い。ヒールのおかげで足もすらりと長く見える。赤のエナメルというのもラフなスタイルが多い私のコーディネートの中でいいアクセントになるだろう。
 でも、どうしてもつま先が気になる。
「なんかこれがね」
「これがいいんじゃん」
 彼は自信満々だ。特徴的なデザインのものを選んでは次々に私に〈似合わせていった〉彼だけれど、さすがに、これは……。
「うーん」
「いいって」
 押しつけがましくなく、無邪気に彼は誉めてくれる。
「ちょっと他のも見る」
「見る? うん」
 彼はなんということもなく、次の候補を探し始める。
 私も棚に並ぶ靴を眺めながら、赤いエナメルブーツを思い出す。
 あのデザインはちょっと、受け入れられなかった。けれど、あれさえなければ直球で私の好みなのだ。惜しい。惜しいだけに気になる。
 どれを見ていても、赤いエナメルブーツが心のどこかに引っかかっている。
 20分ほどフロアをうろうろして、やはり忘れられなくて、パンプスを手に取る彼の肩をつついた。
「やっぱりね、あのブーツ……」
「あ、いい?」
 彼はとても嬉しそうだ。まだ悩んではいるけれど、ああいう特徴というのは身につけてしまうと案外気にならなくなるものだ。その感覚に賭けて、履いてみようと思った。
 ところが、最初に赤いエナメルブーツがあった棚に、それがない。
「あれ、ない」
「ほんとだ」
 棚を間違えたのかもしれない。二手に分かれて近くの棚を探してみる。でも、ない。
 キラキラした光だけが通り過ぎていく。
 ひょっとして誰かが持って行ってしまったのかもしれない。そうなるとものすごく惜しくなる。
「店員さんに聞いてみよう」
 すぐにショップスタッフに頼ってしまう私は、探し続ける彼をおいて近くに立っていたスタッフに話しかけた。
「あの、赤いエナメルのショートブーツなんですけれど……」
 その靴を気に入ったこと、さがしていることを伝えると、スタッフは笑顔でさっと動いた。各靴とそのストックの位置を知り尽くしているスタッフらしい動きだった。
 期待を胸に、スタッフが魔法のように赤いエナメルブーツを取り出してくれるのを待つ。
 それからしばらくして、不吉な予感を眉根のあたりに漂わせて、申し訳なさそうな声音でスタッフが言った。
「ちょっと、みあたらないみたいなんですが……、申し訳ありません」
 本当に申し訳なさそうに深々と頭を下げられて、なんだかこちらの方まで申し訳なくなってしまう。
「いえ、ありがとうございます。別のを探してみます」
「はい、ありがとうございます、本当に申し訳ありません」
 なんだかひどく困らせてしまったという罪悪感まで感じてしまう、萎縮の仕方だった。こちらもお手数をおかけして……、という気持ちがあるので、ますます申し訳ない気持ちになる。
 さっと見つかったら良かったのにな。
 さっきまであった靴がどうしてすぐなくなってしまったのだろう? あれだけ目立つデザインなら、その辺にポロリとあったらすぐに目に付くはずだ。
「ないね」
 彼と合流して、そう言い合った。
 ないならないで別のブーツを探せばいいものを、ないとなると余計に欲しくなるのが人間の不思議でやっかいなところだ。
「もう少し探してみる」
「別のを探すよ?」
「うん、でも。あれ気に入ったから」
「そう」
 彼はそう言って、一緒に探してくれる。
 誰かが試着をして、どこか隙間に雑に詰め込んだりしたのかもしれない。靴なんかあるはずのない棚の下や隙間までのぞき込みながら、赤いエナメルブーツを探す。
 こうなると、執念としたいいようがない。
 一度そういう状態になると、あきらめることが難しくなってしまう。それどころか、見つからないとさらに執着してしまう。
 私の赤いエナメルブーツ。
 持って行っただろう、隠しただろう誰かのことを思って、恨めしくなる。
 あの時、迷わず手にしたままレジに向かっていれば……。
 悔しくてしょうがない。
 それからハッと気づいて、焦った。
 二人で買い物にいくからと、レストランに義母を残してきたのだ。「私はここで休んでいるから」と言って送り出してくれたけれど、義母は自他共に認めるせっかちで短気な性格だ。気性も激しい。そんな義母を、イライラさせたくない。
 そう思うと余計に焦る。厭な汗が頭皮を不快にする。
 背伸びをしても、腰を折っても、しゃがみこんで這い蹲るようにしても、見つからない。
 どんどん焦る。でもどうしても欲しい。
 何かの間違いでメンズフロアにいってしまったのでは? メンズフロアでサイズの大きな靴を眺めながら、強いゴムと皮の匂いに少し気分を悪くする。
 やっぱり見つからない。けれど、これだけさがしてないということは、〈ありえないこと〉が起きているのだ。だから突拍子もない考えが答えを導き出すことがある。今回もそうであって欲しかった。
 メンズフロアとレディスフロアを言ったり来たりして、危うく関係のないフロアに降りてしまいそうになりながら、結局レディスフロアの唯一帽子が売られているコーナーの前で茫然とした。
 これだけして、どうして見つからないのだろう? 混乱してきた。
 本当にもう、デパートとかファッションビルとかは、どうしてこうややこしくて、そのくせどの階も同じように作ってあるのだろう。いや、同じように作ってあるからややこしいのか。
 うっかり本屋やフィギュアコーナーなどに迷い込みながら、あわててシューズコーナーに戻ってくる。
 なかなか欲しい本があって三冊ほど思わず抱きしめてしまったけれど、今は赤のヒールブーツを探さなきゃ。
 そういえば彼はどこにいってしまったのだろう?
 なんだか同じところをぐるぐると回っているだけのように思えてきた。実際、そうだった。
「見つかった?」
 彼が少々困り顔でやってくる。彼の方にも収穫はなかったようだ。
「なかったー」
「他の探そうか」
 二度目の提案。赤いエナメルブーツを心に残して、次の候補を探すことにした。
「これなんかどう?」
 貝の柄が入った縁の長いパンプス。
 最初の「ショートブーツ」という希望からははずれていたけれど、珍しさから興味をもった。
「これはシリーズもので、こちらのデザインもあります」
 そう言って手で示された先を見ると、縁の部分が段々に広がってかなり派手な海洋生物のようになったパンプスが、サイズ違いで置いてあった。
 どうです、すばらしい靴でしょう? というデザイナーの声が聞こえてきそうな気がしたけれど、あまりに突飛すぎて、パンプスというよりオブジェのように見えた。
 オブジェとしては面白いんだけど、履き物としてはちょっと……。
「あ、いいです」
 この場合の〈いい〉は〈いらないです〉の短縮形だ。きっぱり断るのはやはり苦手だ。相手が善意に満ちていると、余計にだ。
 いい靴が見つからない。
 義母を待たせている。
 両方の焦りとプレッシャーが胃袋をぐぅと握りしめる。特に後者。
 さすがにまずいだろうと思って、義母が待つレストランへ走った。
 義母は廊下の窓際に席をとって、ワインを飲んでいた。ボトルは半分ほど空いていて、食事にはあまり手がつけられていない。
 〈完全飲酒〉モードだ。
 ラッキー、と言葉にならず心が跳ねる。
 義母はかなりの酒好きだ。晩酌は欠かさないし、休みの日は昼間からゆっくりと楽しんでいる。酒癖は陽気になる方で、面倒なことにはならない。
 お酒をのんでいるなら、多少待たせてしまっても機嫌を損ねられずにすむ。本当に〈多少〉なので、もちろん〈多少〉機嫌を悪くされる可能性は十分に残っているのだけれど。
 とにかく義母に声をかけて「ああ、いいわよ」という言葉をいただいて、心底ほっとした。それからレストランを出ると、走って靴探しに戻った。
 同じところを角度を変えて体勢を変えてのぞき込み、靴や飾りを持ち上げてまで探す。
 しばらくそうやって探すパターンが決まってきた――色々やってみた結果それ以上探す方法がなくなってしまった――ので、絶望が少し見えてきた。
 ない。これだけさがしてないのなら、仕方がないのだろう、あきらめた方がいいのでは?
 心の中で思いながらもそれはかすかなもので、魔法のようにパッと目の前に赤いエナメルブーツが現れないかと期待してしまう。
 どうにかして手に入らないだろうか。
 何度目になるだろうか、メンズフロアにいってみると、エレベーターを出たすぐのあたりにいた店員が私に気づいて、にっこり笑った。
「こちらのパンプスはいかがですか?」
 え? パンプス? しかもメンズフロアで?
 薄茶色の靴箱を持って、坊主にTシャツ、ネックレス、ジーンズの、少し厳ついけれど人懐こい笑みを浮かべたスタッフだった。
 戸惑いながら彼が持った靴箱をのぞき込むと、茶と濃い茶のツートンで、切り替えとベルトの装飾が斜めにあり、その色合いと質感で一発でブランドがわかった。
 そして、頬にかあっと熱が上がった。
 このブランドの靴は、ショートブーツ、ウェッジソール、低めのウェッジソール二足、チャンキーヒールのショートブーツを持っている。
 シンプルで、センスが良く、履きやすく、頑丈なデザイン。元々登山靴を作っていた老舗メーカーなので、とにかく歩きやすさには信頼がおける。ヒールが高くても安定していて、足が疲れにくい。
 一番のお気に入りのブランドの、しかもものすごく素敵なデザインのストラップ付きパンプスを差し出されて、一目で惚れた。
「あの、試着いいですか?」
 頭がぼうっとして、導かれるようにそう言っていた。
 スタッフが用意してくれたパンプスはサイズがぴったりで、足を包み込んできつくなくしかし足をちゃんと包み込んでサポートする。快適な履き心地は、さすがとしかいえない。
 しかも、めちゃくちゃ可愛い。
 一気にテンションがあがる。
 追いついてきた彼がそれを見て、笑う。
「ああ、それ、いいね」
「うん、これめちゃいい」
 もう一瞬で購入を考えている。軽く歩いてみて履き心地を再確認して、どこにも痛かったり引っかかったりする部分がないことに感動して、太めのしっかりしたヒールも野暮ったくないサイズ感で好印象だ。
 完璧なパンプスだ。
 基本的にゴツめのデザインが多いブランドなので、レディスでパンプスで、しかも自分のセンスにしっくりくるものはなかなかない。これはもう買いだ。これを逃したら二度とお目にかかれない。はっきりとわかる。
 これは運命だ。さっと差し出されたパンプスがサイズぴったりで、好きなブランドで、好みのデザインだったなんて。奇跡としかいえない。このパンプスは、私と出会うために待っていてくれたのだ。
「これ、いい」
 彼に言う。ほとんど「これ、買う」だった。
 彼は私の即決に少し戸惑ったようだったけれど、それでもほっとしたような、嬉しそうな笑顔でいてくれた。
「よかったね」
「うん」
 何度も歩いて見て、奇跡的なフィット感を楽しむ。膚になじんで、歩きにくさもない。むしろ歩きやすい。
「いい、これ」
「うん」
 彼は笑っている。
 スタッフも空の箱を持って嬉しそうにしていた。
 赤いエナメルブーツのことなどほとんど忘れていた。今履いているパンプスの履き心地があまりによすぎて、このまますたすたとフロアから出ていってしまいそうだった。
 ところが、だ。
 靴が、ない。
 元から履いていたブーツがない。
 もともと履いていた靴もお気に入りのブランドのヒールブーツで、ヒールがありながらスポーティにデザインされたブーツだった。独特の質感もだけれど、一番のお気に入りは色だ。紫の、派手すぎずシックな、それでいて大人しすぎないカラーリング。
 私の紫のヒールブーツが、ない。
 どこにもない。
「おかしいですね」
 パンプスを勧めてくれた親切なスタッフも、困惑顔で周囲を見渡す。
「飛行機の時間があるから」
 急かす彼の声は、頭の中を素通りしていった。そう、私たちは今旅先にいる。そして今日は帰国の日で、飛行機に乗らなければならない。
 なのに、紫のヒールブーツがない。
 焦った。
 どうして? さっき脱いだはずなのに、すぐそばにおいていたはずなのに、どうしてないの?
 レディスフロアからも応援が来て、五人ほどのスタッフが私のブーツを探しに走り回ってくれた。
 私も紫のヒールブーツを思い浮かべながらあちこちを見回すけれど、それらしいものはない。
「紫のヒールブーツで、○○○というブランドの靴です」
 私はスタッフに細々と、しかしはっきりと説明した。
 しばらくして、「こちらでお預かりしている……というか、忘れ物であった靴なんですけれど……」
 戸惑い気味に、金髪ボブカットの女性スタッフが三足ほどブーツを持ってきてくれた。どれも黒、茶色二足のどこにでもある素っ気ないデザインのもので、全然私の靴ではなかった。
「すみません、これじゃないです」
 がっかりして、それでもスタッフの配慮に感謝した。
 いよいよ飛行機の時間が迫り、彼は余裕をもって「先にいくから」ということでいなくなった。
 義母は彼と一緒に空港に向かっただろう。結局すごく待たせてしまった。申し訳ないし、義母の心象を考えると、暗い気持ちになる。けれど、どうしても靴のことはどうにかしたい。
 これは困った。気に入ったパンプスが見つかったのだから、さっさと決済して古いブーツは捨てていけばいいじゃない。そんな声が聞こえてくるようだった。
 けれど、紫のヒールブーツはそんなに古くはない靴だし、とても気に入っているのだ。捨てていくわけにはいかない。
 焦る、すごく焦る。
 さっきからスタッフは勘違いした靴ばかりを持ってくるし、あたりを探しても見つからないし、ひょっとしたら私の紫のヒールブーツを気に入った誰かが勝手に持っていってしまったのだろうか、などと邪推するまでになってしまった。
 イライラもするし、何よりも疲れる。ひどく疲労していた。焦ると胸も苦しくなるし、途方に暮れる。
 同じ光景が何度も繰り返される。同じ場所を探している。
 あれだけキラキラと輝いていた華やかな空間は暗く打ち沈み、気づいたら閉店後の静けさが漂っていた。
 閉店?
 あんまり長居しすぎて、閉店時間を過ぎてしまったのだろうか。フロアには誰もいない。それでも、狂ったみたいに探し続けた。
 ぐるぐる、ぐるぐる、同じ場所を走り回って、探し回る。
 閉店する前、私が残っていることに気づかなかったのだろうか。そんなことを頭の片隅で考えながら、ひたすらに紫のヒールブーツを探し続ける。
 前にもこんなことがあったような気がする。探しても探しても見つからない。時間ばかりがすぎて、ものすごく焦る。汗をかいて、厭な感触がする。
 息苦しい。同じところをぐるぐる何度も何度も回る。
 こうなったら、スタッフ・オンリーの立ち入り禁止場所だって探してみよう。ストックヤードや小さな箱が積みあがったものなど片端からチェックしていって、レジカウンターに気づいた。
 そこにも近づいて、隙間から中へ入った。手で触れた黒い棚が案外軽い感触で動いたので、あわてて元の位置に戻した。
 それから座り込んで下の棚の中を調べると、目の前に片方がくったりと傾いたショートブーツがあった。黒い棚の中に半ばとけ込むようにしてあったそれを「まさか」と思いつつ手にすると、ハッと記憶が蘇った。
 〈これだ。私が履いていたブーツはこれだ〉
 見慣れた流線形のソール、冬用に厚手で少し硬い外側、知っている重さ。履き心地さえ思い出せる。履いているうちに左側のかかとのパーツが内側に飛び出してきて、かかとに当たって痛いということも。
 私が履いていたのはこの黒のショートブーツだ。黒のショートブーツを脱いで、パンプスを試着したのだ。どうして今まで、紫のヒールブーツだと思いこんでいたのだろう。
 私は黒のショートブーツをつかむと、止まったエスカレーターを駆け下りた。閉店しているなら出入り口も閉まっているはず。どうやって外に出ようかと考えているうちに一階について、エスカレーターの先に大きな正面ドアが見えた。
 一階ホールの真ん中に薄い色の着物をきた白髪の老女が一人いて、何か拝むようにしている。
 エスカレーターを半分ほど降りると、正面ドアがまるで私を待ちかねたように開いた。
 出られる!
 何の偶然でもいい。エスカレーターを勢いよく駆け下りて、正面ドアから外に出た。
 乾いた涼しい風が頬を撫でた。
 息がゆっくりになって、徐々に落ち着きを取り戻す。
 空は淡い水色で、薄い雲がゆったりと流れている。深呼吸をしてみた。
 そうだ、フライトの時間!
 ガラケーを取り出してバッテリーの残量を確認すると、一足先に空港へ出発した彼に電話をかけた。呼び出し音が鳴る間、空港まではタクシーでいこう、それくらいのお金は持っているだろう、などと考えていた。
 一階だけどうしてあんなに明るかったのに、外に出たら二時過ぎで、閉店するような時間ではなかったことに、後で気づいた。そして、あの老婆はなんだったのか。なにをおがんでいたのだろう。
 そういえば、試着したパンプスを履いたままだ。エスカレーターを駆け下りたというのに、足に痛みはない。さすがだ。
 支払いをしていないけれど、どうしよう。時間はもうないし、閉店しているのでは支払いようがない。
 はあ、とにかく、帰国できる。
 フライトの時間に間に合うだろうか。今二時過ぎで、フライトは夕方だったはず。
 色々考える中で、新しい心配事はそれだった。


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