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木乃伊蕎麦

 なんだってお客さん? 木乃伊蕎麦? いやあ、残念だねえ、ちょいと遅かったよ。だってえ、いなくなっちまったのさ。えっ、その後はどうなったかって? さあねえ。木乃伊蕎麦がなくなっちまったときは、みんな一時物狂いみたいになっちまってさ、そりゃあもうてえへんだったんだ。ありゃあ仕舞にならなきゃお上に取り締まられるのがオチだったね。
 風鈴蕎麦屋の親父はそう言って仕事に戻っていきました。

 件の木乃伊蕎麦は何の変哲もない夜鳴き蕎麦屋でした。
 しかしその蕎麦が有名になるのに、そう時間はかかりませんでした。
 まずは仕事を終えた職人たちがその新参の蕎麦屋に目をつけ、空樽に腰掛けました。いい汁の香りが職人たちの顔を撫で、目の前に蕎麦を茹でる真っ白な湯気が立ち上ります。
「こりゃあうめえや。汁が奢ってやがる」
 職人の一人が声を上げました。
「鰹に昆布か・・・他に何か入れてやがんのかい?」
 別の職人が蕎麦屋の親父に問いました。
 親父は頬かむりをして口元でにこりと笑っただけで、なにも言いません。
「ごちそうさん」
 小銭と器が置かれる音がして、職人たちはあわただしくそれぞれの仕事へ裏長屋へと駆けてゆきました。
「ちょいと、一杯おくれよ」
 あだっぽい夜鷹の姉さんまで声をかけ、蕎麦をたぐります。
 夜鳴き蕎麦屋は移動式の小さな店舗で商売をしており、どこから来てどこへ去っていくのか、客の誰も知りませんでした。
 親父も謎めいており、いつも頬かむりをして、無口で、わずかな笑みを浮かべながら手際よく蕎麦を盛りつけるのでした。
「こりゃあうめえや」
 また声が挙がりました。
「そうだそうだ。おい、だしは何なんだい?」
 いつもたずねられるのですが、親父はやはり微笑んでなにも言いません。
 
 やがて夜鳴き蕎麦屋にはさらに客が増えました。珍しもの好き、早耳の江戸っ子はこぞって夜鳴き蕎麦屋へ集まりました。素人の女が子連れでやってくることもありました。
 蕎麦玉がなくなりしだい蕎麦屋は仕舞になりますが、翌晩にはまた蕎麦屋は盛況で、人だかりができるほどでした。それでも親父は休むことなく仕事をします。
「おい親父、とうとう瓦版にのったって言うじゃねえか」
 ある常連客が昼間に買った瓦版を見せ、ほかの客がわいわい言いながら回し読みをしています。
「おいらは瓦版を読んでそんなにうめえんならって来たんだけどもよ、こりゃあ思ったよりずっとうめえや」
 くしゃくしゃになった瓦版を受け取って、男が笑いました。
「この蕎麦にゃまいった。うちの蕎麦でもかなやしねえや」
「店たたたんで、弟子入りしたらどうでえ」
 やいのやいの言う男の連れに、白髪頭の男が言いました。
「それじゃ木乃伊取りが木乃伊だ。」
「そりゃそうだ」
 あはは、とまた笑いが起きます。
 
 夜鳴き蕎麦屋は夜が更けるのを待たず閉店し、また新しい蕎麦玉と汁を仕込みに引き上げていきました。
「おい、噂の蕎麦屋ってのはここかい」
 黒羽織の同心が夜鳴き蕎麦屋に立ち寄りました。同行した岡っ引きが提灯を折り畳み、火をふき消しました。腰を据えて蕎麦をたぐるつもりの様子です。
「別に調べに入ろうってわけじゃねえんだ。そんなに無口になるなよ」
 同心の言葉に、蕎麦屋の親父はいつも通り無言でうなずくだけでした。
「お、目黒の旦那。こんな時間までお勤めですかい」
「こんな時間だからだよ」
 目黒と呼ばれた同心は促して、あいた空樽に職人を座らせました。
「旦那も噂で?」
「そうだな。最近夜は物騒だからな、こうして見回ってんだよ」
 蕎麦を一杯頼んで、目黒は空を見上げた。蕎麦を茹でる湯気が雲のように広がっています。目黒は黙って蕎麦をたぐりました。濃い汁の香りが目黒を包みます。肌寒い時期に胃の腑に落ちる温もりは心地よく感じました。
「お。旦那、もうお帰りですかい」
「おれがいると皆くつろぎにくいだろう。ちょっと顔見せに寄っただけなんだ。もう帰るぜ」
 声をかけた職人に目黒はそう言い、岡っ引きは親父に火を借りて提灯を立てると、同心の足下を照らしながら去っていきました。
 
 その次の日、また瓦版が発行されました。
 どこで聞きつけたのか知りませんが、夜鳴き蕎麦屋の汁には木乃伊の粉が入っているという噂です。
「しかも即身成仏の木乃伊らしいよ」
 長屋の井戸端で女たちが口さがなく言い合います。即身成仏が何かも知らないのに、珍しい、気持ちが悪いというだけでいい話題になります。
「薬問屋では不老長寿の薬だって売られてるそうだよ」
 お歯黒口がにやにやと笑いながら言います。
「ほんとかい? 不老長寿の薬なら、旨くてもうなずけるねえ」
「食べてみたいやら気味が悪いやら、ほんとうかねえ」
 女たちはわいわいと笑いあって「食べにいってみるかねえ」「いやだよう、木乃伊蕎麦だろう」などと言いあっていました。
 夜になると蕎麦の汁と茹でる香りが空を染めます。
 目黒がひとりでふらりと蕎麦屋に立ち寄りました。その時は珍しく客が捌け目黒は親父と二人っきりになりました。
「時に親父、風の噂で聞いたんだが」
 目黒が目の前に置かれた蕎麦に目を落とします。
「なんだい、親父の店じゃあ、仏さんのだしを使ってるって噂じゃねえか」
 親父はいつもの通り頬かむりで笑みを浮かべています。目黒はしばらくそんな親父の目をのぞき込むようにして、蕎麦をたぐりはじめました。
 蕎麦汁まで飲み干してから、目黒は小銭を台に置きました。
「確かにうめえや。木乃伊の妙薬が入っていてもおかしくねえな」
 皮肉にもとれるが面白がっている声音でそう言い、目黒はやってきた時同様ふらりと去っていった。
 
 それ以来、名物の夜鳴き蕎麦屋はなくなってしまいました。誰が探してもどこにもいません。河岸を変えたわけでもなさそうです。
 人々は蕎麦屋を求めて夜中にさまようようになり、普通の蕎麦屋だと罵倒を浴びせる者まで出る始末でした。
 思い出の中だけで人々は木乃伊蕎麦と言い伝えるのでした。
 同心目黒は、あの夜鳴き蕎麦屋にまたどこかであえるかもしれないという思いをかすかに残し、笑みを浮かべぶらぶらと見回りをするのでした。

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