見出し画像

カキモトという男について

 カキモトという男について語る。
 カキモトは、いつも夜にやってきた。
 毛布にくるまって、うとうとと心地良い微睡みに身を委ねようとしている時に、チャイムを鳴らしてやってくる。
 すごく腹がたつのだけれど、何故か素直に鍵を開けてしまう。
 カキモトは「やあ」とか「遅いのに悪いね」とか当たり前に思える言葉を持たず、ずかずかと部屋に上がり込んでくる。
 それから流しに汚れっぱなしにおいてあるコップを手にとって、水道水をためるとぐいぐいと呑んでしまう。
 まだ寒いので炬燵のスイッチをつけて、膝を入れる。
 カキモトは炬燵に入らず、あぐらをかいてまるで酔っ払ったような半眼でこちらを見ていた。
 本当にべろべろに酔っ払っているのかしれない。
 いや、正気かもしれない。
 わからない。
 娘が男になるってよお、
 カキモトが言った。
 何のことかわからなかったけれど、とりあえず頷いておいた。
 相槌とも言う。
 便座が上がってるんだよう、
カキモトが言った。
 それが男ってことだろう、と思うけれど、何も言わずに頷く。
 炬燵が少しずつ温かくなってきたので、手探りでどてらを引き寄せて頭からかぶった。
 カキモトは人生にほとほと疲れ果てた、という風にかぶりを振っていた。
 そもそも、このおじさんはどうしてこんな非常識な時間に、部屋を訪ねてくるようなことになったのだろう。
 ほとんど顔見知り、という程度の人だ。
 行きつけの定食屋に入って、顔見知りだから、ちょっと会釈する、みたいな。
 具体的な会話は一言も交わしていない。
 なのにこの男は、しつこいけれど、非常識な時間に当たり前のようにチャイムを押す。
 事件だよ、事件、
 カキモトが言った。
 猫がここにいれば完璧なのにな、と思いながら、炬燵の温かさに体をうずめる。
 窓の外が明るくなって、雀のチュンチュンという鳴き声が聞こえるようになって、カキモトはようやく部屋を出て行った。
 水道水をぐいぐい呑んで、大きく貯め込んだ息を吐き出しながら言う。
 プール掃除をしなきゃならねえんだよ、プールだよ。わかるか、あんなに広いもの、どうやって掃除するっていうんだ、まったく、
 猫を抱えたくなるような真冬だったけれど、まあ、カキモトにはカキモトの仕事があるのだ。
 頷いて、カキモトが部屋から出て行ったら鍵を閉めた。
 カキモトが廊下でプールについてブツブツ呟いている声が聴こえる。
 段々遠くなって、聞こえなくなってからようやく布団に潜り込んだ。
 炬燵の電気、つけっぱなしだ。

――了――

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?