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満月と傷と猫

 満月の夜だった。

 夜は好きだ。
 静かだし、人は少ないし、空気も綺麗な気がする。
 子供の頃、田舎の祖父母の家にいった時のような星空は見えないけど、満月はまん丸くて明るい。
 電灯がない道だってほんのりと銀色に輝いているように思える。
 満月になると犯罪率が上がる、なんて噂も聞いたことがある。
 どこまで信用できるかよくわからないけど、まん丸の輝く月を見ていたら、なんとなくそんな気持ちになるのはわかる気がする。

  たす……

かすかに誰かの声が聞こえたような気がした。
 こんな夜中にうっすらと女の声が、なんて洒落にしかならない話だけど、本当に困っている人がいるなら。
 いるなら、どうしよう。
 ケンカは強くないし、誰か他に助けを呼べそうな人はいない。
 スマホはおいてきたから警察は呼べないし、商店街や住宅街から少し離れた小さな公園にいるものだから、どこかに助けを求めるということもできない。
 第一、こんな夜中に尋ねてくる人物の言うことを信じる人間がどれだけいるだろうか?
 女の人が助けを求めているようです、助けてください。いや、助けて欲しいのは僕ではなくて、彼女……多分、女の人なんですけど。

  たすけて……
 
 これはもう無視できない。
 はっきりと聞こえてしまった。
 誰かに何かされたのか、うっかり何かやらかしてしまったのか、誰かがどうやら助けを求めている。
 しかも、声からして若い女性だ。
 か細い声は公園の草むらのどこかから聞こえてきて、風でざわざめく公園をぐるりと見渡してみる。

 ざわ
ざわ
   ざわ
 ざわ  ざわ
ざわ

 東西南北、全方向を包囲されてしまった。
 逃げ出すことはできないような気がした。
 月に照らされたモダンなデザインの遊具が、月の明かりに照らされて、舞台のオブジェのように見える。
「どこですか――」 
 なんとなく大声ははばかられて、小声でたずねてみる。
「あの――」

  たすけて……

風の合間に、声がはっきり聞こえた。
 彼女の――その姿を、月明かりがはっきりと照らし出していた。
 髪の長い女の人がいた。
 光沢のあるワンピースに、薄手のカーディガンを着ている。
 彼女は草むらに仰向けに倒れていて、両手を広げている。
 誰かに暴行されたのだろうか?
 そのわりには服は乱れていないし、暴力を受けたような痕は見られない。
 だけど、原因が犯罪だけとは限らない。急病だってこともある。
「救急車――呼ぶ?」
「……いらない」
 そばによって膝をつくと、彼女の瞳が青白く光ったように見えた。
「どうかしたの――?」
「見てわからない?」
 ええっと、見てわからないから「どうしたの」って聞いているんだけど。
 どうにも会話が噛み合わないのは、彼女の意識が朦朧としているせいなのか。
 だとしたら急病だ。
 走って家に帰ってでも、救急車を呼ぶべきだろう。
「呼ぶ、救急車――」
「違うの」
「なにが――」
 彼女は上半身を怠そうに起こして、溜め息をついた。
「急に動かない方がいい――」
「これくらいは平気よ」
 たすけて、というか細い声からは想像もつかない、突き放すような言い方。
「あなた、若くて健康そうね」  
「ああ――、風邪ひいたことない――」
「その間延びしたしゃべり方、どうにかならないの?」
「間延び――? 僕はずっとこうだけど――」
 間延びしてるなんて、言われたことはない。
 学校の女子に〝変わってるね〟と言われたことはあるけど、間延びはない。
「まあいいわ。助けてくれるのよね?」
「え――、まあ、そのつもりで来たけど――」
「だったら、こっちへ来て」

  こっちへ来て?

 助けて欲しいのだから近くに来て欲しいのはわかるけど、さらに近づくとほとんど身体が接触してしまう。
「手を貸せってこと――?」
「違うわよ。とにかく来なさい」
 突然上から目線のきつい言い方。
 彼女の瞳がコンロの炎のように青く輝いて、それは燃えるようにゆらゆらと揺れて、しばらくして彼女はまた溜め息をついた。
「あなたには効果ないのね」
「なんのこと――?」
「そのしゃべり方、イライラするわね」
 彼女は機嫌を損ねたようで、やっぱり怠そうに右手を差し出した。
「手、貸して」
 やっぱり、手を貸して欲しいんじゃないか。
 なんだか、ちぐはぐな要求ばかりしてくるのに、本当に助けが必要な人なのか、と疑問を覚える。
 仕方がないので、左手を差し出す。
 彼女が手首を掴んで、引き寄せた。
 僕は草むらの中に膝をついて、彼女の前にぺたりと座り込むかたちになる。
 彼女の顔をつきあわせると、色が青白くてとても綺麗な顔をしていることがわかった。
 どうかしたら人形のような感じだ。
 女の人の顔をうまく表現できないけど、例えるとしたら「人形みたいな――」くらいしか語彙がない。
 人形みたいな顔をした彼女は、なんだか嬉しそうに右手でさっと僕の左腕の袖をたくし上げ、そこにあったものを見て顔を歪めた。
「ちょっと、何コレ」
「アームカットの痕だけど――」
 手首から肘まで続くミミズ腫れのような無残な傷痕に、彼女は嫌悪感というより、落胆したように溜め息をついた。
「なんで無駄なことするのよ」
「無駄じゃない――」
 彼女は僕の左手を握ったまま、覗き込む。
「血がもったいないじゃない」
 僕は、ふと気づいた。
 これは――危ない人なのかな、と。
 危ないのは彼女じゃなくて、僕なのかもしれない。
「僕、用事を思い出した――」
「嘘。用事なんかないでしょ」
「なんで嘘だってわかるの――」
「だって、用事があったら真夜中にこんなところウロウロしてないでしょ」
「そうだけど――、いや、用事があって――」
「助けるの、助けないの。どっちなの、はっきりして」
「ええ――。じゃあ、救急車――」
「だからそうじゃないってば」
 仕方ないわね。
 そう言うと、彼女は僕の手首にかぶりついた。
 噛み付いた、じゃない。
 かぶりついた、だ。
 噛み付いた、なんて可愛いものじゃない。
 がっぷりと、がっつりと、鋭い歯をたててかぶりついたのだ。

  ぎゃあっ

 彼女は悲鳴を上げて、口から血を滴らせながら後ずさった。
「ちょっと、何持ってるのよ!」
「何って――」
 膨らんだパーカーの腹部を開く。
 
  にゃー

「うっわ、猫! なんで、なんてとこに猫入れてるのよ!」
 彼女は、今までの怠そうな動きとは裏腹に、まるで素早い昆虫のように、草をかき分けて後ずさった。
僕はひょこりと顔を出した猫の喉を撫でながら、そんな彼女を見つめる。
「散歩にいくっていったら、お母さんに夜は危ないから猫持っていけって言われた――」「何よそれ。第一、その歳で〝お母さん〟とか気持ち悪くない?」
「別に――、みんな言ってる――」
 ジッパーを閉めて猫を収めようとすると、彼女が手でシッシッと払うように左手を振る。
「どこかに置いてきなさいよ」
「だって、どっかいったら困る――。家猫だから――」
「もうどうでもいいわ。とにかくその猫を近づけないで」
 ああ驚いた、なんて彼女はブツブツと呟いて、その間、パックリと開いた僕の左手は血だらけになって、血が凝固して出血は止まっていた。
「血管までいった――。やめてよ、またお母さんに心配かける――」
「そんだけグチャグチャにしといてよく言うわ。〝お母さん〟が可哀想」
「そう――、だから、隠してる――」
「私には隠さないのね」
「まあ、通りすがりの人だから――」
「通りすがりって、一応重体なんだけどね」
 そう言って彼女は僕の左手をとって、唇をつけた。
 舌が凝固した血を捲って、血が漏れ出すのを感じる。
「あの――」
 彼女はそうやって吸い付いていることに夢中なようで、僕の言葉は耳に入っていないようだった。
「あんまり血を失うと、動けなくなるから――」
 あれ、と思った。
 これは、吸血鬼、というやつだろうか。
 古い映画では黒いインバネスを羽織りタキシードを着た紳士が、美女の首筋に噛み付いていた。他に見た吸血鬼も、大体首筋だ。
 中には人工透析の装置を使って血を抜き取る映画もあったけど、それはカニバリズムというか、殺人鬼の話だった。
 やっていることは一見似てはいるのだけど、一緒にされたら、それぞれから、きっと猛反発をくらうのだろうな。

  一緒にするな!
  
僕はよくそういうお叱りを受ける。
 あれとこれは違うとか、ソレとアレは一緒だとか、世の中は細分化されていて、でも重複もしていて、とてもややこしいものでいっぱいだ。
「ちょっと――」
「…………」
「困るな――」
「…………」
 血を飲み込むのに夢中な彼女に、僕はカシカシと頭を掻いた。
「えい」

  ぎゃあっ!

猫をぬっと突き出されて、彼女はポロリと落ちそうなくらい目を見開いた。
 口の中を真っ赤にして、それをパックリと開けて、悲鳴を上げる。
「猫は嫌いだって言ったでしょ!」
「えー、言ってない――」
「嫌いなのよ、あっちにやって!」
「だからやれないっってば――」
「じゃあアンタがあっちにいって!」
「血――」
「なんとかなるわよ! まだ足りないけど」「血、いるの――?」
 手首を押さえて、圧迫止血をする。
 彼女は細い肩を上下させて激しく息をして、とても苦しそうだった。
「行くとこあるの――?」
「ないわよ。ホームレス」
「それって、地球が家ってことじゃない――?」
「まあ、そうとも……、言わないわよ! バカ!」
 バカじゃないの――。
 これもよく学校の女子に言われたことだ。それも結構、わりと本気で言われた。
 何をして、何を言って、そういう反応が返ってきたのか記憶にない。
 多分、その子の気に障ることをするか言うかしたんだろう。
 そうなると、最初の評価とコンボにして「変わってるね、バカじゃないの」みたいになるのだろうか。
 僕の評価は散々だ。
「まあ――、いい――。行くとこないなら、僕のうちに来れば――?」
 傷口が瘡蓋(かさぶた)になり始めたのを確認して、公園の手洗い場で血まみれの手を洗う。
 彼女が何も言わないので振り返ると、彼女はキョトンとしてあの青白い光を瞳に湛えていた。
「え、うち?」
「うちー、一応一戸建てだ――。来客用の布団もある――、干してないけど――」
「ちょ、ちょっと待って」
「待つ――?」
「私が、あなたの家にいくの?」
「そう言った――」
「バカじゃないの」
「また――、もうバカでいいよ――」
 両手の水気をジーンズで拭って(バカみたい!)傷を刺激しないよう袖を引き下ろす。

 そうして、彼女は僕のうちに住むことになった。
 彼女はとにかく猫を嫌っていて、家が臭いとか、毛が服につくとか散々文句を言って、まだ腹が減っているからと言うから、冷蔵庫から持ってきた牛のかたまり肉をまるごと食べてしまった。
 豚肉と鶏肉を持ってくると、それもたいらげた。
 細い身体のどこにそれだけの肉が入っているのか、わからない。
「猫は部屋に入れないでよ」
 彼女にきつく言われて、猫を部屋の外に出した。
 唯一、僕の部屋に出入りする家族だったのに、出入り禁止になってしまった。
「ごめんな――、きんたろ」
「きんたろ?」
「名前。柄は茶トラだけど、毛色が金色だから」
「なにそれ。短絡的ね」
 さっきから色んな言葉でバカにされる。
 世の中は色んな表現で満ちている。
「でもまあ、動物の肉も悪くなかったわね。鶏は最悪の味だったけど」
「あれ――、お母さんがお取り寄せした高級地鶏――」  
「質は最高でも味は最低。ぜんぜん血の味がしないじゃない。でも、牛はなかなか美味しかったわ」
「あれは近所のスーパーで買った、百グラム百二十八円のカナダ産の安売り肉――」
「安くても味はよかったわ。まあまあよ、まあまあ」
 息子の夜散歩を送り出して眠りについた母は、朝起きて冷蔵庫を見て肉がすっかりなくなっているのに驚くだろう。
「ちょっと、今、何時?」
「え――、ちょっと待って――」
 暗い部屋の中で――彼女が電気をつけるなと言うので――スマホを探し出して、ホームボタンを押す。
 表示された時間を彼女に伝えると、薄暗い中でもわかるくらい彼女はあわてて僕のベッドに潜り込んだ。
「もう日が昇っちゃうじゃない! なんで? もう明るいはずなのに、部屋が暗いの――」
「だって――、太陽の光が入らないように、窓に暗幕つけてるから――」 
「暗幕?」
「そう。暗幕。光を通さない布地で――」
「知ってるわよ、暗幕くらい。なんで暗幕なんてつけてるのよってこと」
「だから、太陽の――」
「なんで太陽がダメなの?」
「なんでって――」
 僕は頸をかしげた。
「なんでだろう――」
 言葉が続かないとわかると、彼女は暗闇で深い深い溜め息をついた。
「とにかく、日が出てもここは真っ暗なのね」
「うん――。ダメ――?」
「イヤ!」
「え――、いやって言われても――」
「そのイヤじゃなくて! ダメが違う! ああややこしいわね! 暗幕つけたままでオッケー!」
 バンバンと床を叩く彼女に、唇に人差し指を当てて見せる。
「お父さんとお母さんが寝てるから、静かにして――」
「わかったわよ。まあ、安全なのね」
 そういえば、と思った。
 吸血鬼は太陽の光が苦手だった。
 彼女はその設定を守っているのか、本当にそうなのか。
 わからないけど、とにかく、暗幕を外せだなんて言い出さなくて良かった。  
「はぁー、安心したら眠くなったわ」
「布団――」
「とりあえずここでいいわ。地面で寝るなんて最低よ」
 というわけで、ベッドを彼女に譲り、僕は床――彼女が言う地面――に来客用の布団をしいて、掛け布団をかけて横になった。
 日が暮れたくらいに起き出して、朝方に眠りにつくので、ちょうど良かった。
 それほど時間をおかずに、眠りについた。

 ある夜、僕がパソコンで調べ物をしていると、彼女――〝しろこ〟(勝手につけた。肌が白いから)――が肩越しに覗き込んできた。
「何か観る――?」
「みるって、何を?」
「映画とか、ドラマとか、アニメとか、ドキュメンタリーとか――。色々ある――」
「別にいいわ。それより、手っ取り早く血液が手に入らないかしら」
「血液か――、病院に行けば?」
「いけると思う?」
「うーん」
 考えてみる。
「貧血なので輸血してください、はいどうぞ。なーんていくわけないでしょ!」
「ちょっと、声大きい――」
「そうね、大切な〝お母さん〟が起きちゃうものね」
「近所迷惑――」
「両親の次はご近所さんなわけ?」
「マナーは守らなきゃ――」
「わかったわよ」
 しろこは腕を組んでプイとそっぽを向いた。「まあ――、血を飲みたいのはわかったけど――、気をつけないと、感染症とか――」
「私が人間の感染症程度でどうにかなると思う? 最強の抗体を持ってるんだから」
「そうか――」
 少し考える。
「血を買う――?」
「お金ない」
「そっか――」
 キーボードを叩いて、ウェブ検索をかける。
「血液って結構高い――」
「えっ。買えるの?」
「買える――。ダークウェブで売ってる――」「ダークウェブ……、なんだか血が騒ぐネーミングね」
「要は〝闇サイト〟なんだけど、〝ディープウェブの一部で――」
「そんなのははどうでもいいのよ! お金があれば買えるのね」
「どうにかしてお金作る――?」
「何か方法あるの?」
「働く――」
「イヤよ、そんなの」
「データ打ち込みとか――、パソコンでできる仕事もある――」
「だから、イ、ヤ、よ」
「も――」
 しろこのわがままも極まれり、だ。
 僕だって、ウェブ更新用のライティングをして、生活費を家に入れている。
 それくらいはする。
 でないと、家を追い出されるし、そうなったら困るのは自分だから。
 ずっと部屋にいても、ちゃんと仕事をしているならと言って、父親も干渉してこない。
「あなたからもらうのが一番手っ取り早いのよね」
「でも死ぬのはいやだ――」
「散々アムカしてるじゃない!」
「これは生きるため――。生きてるって感じるためだよ――」 
 僕のアームカットに対する信念を話したところで、しろこに鼻で笑われるのはわかっている。
 あまり多くは語らずに済ませた。
「じゃあ、お母さんとお父さんは? ダメよね、当然。フン」
 フン?
 何だろう。
 何がそんなに気に入らないのだろう。
 女子って、本当にわからない。
 しろこは、“女子”っていう年齢より、少し上に見えるけど、言動は女子と変わらない。
 それより子供っぽいくらいだ。
「猫は――」
「絶対イヤ」
「猫はダメだよ、死んじゃう――。犬もダメ――、死ぬから――」  
「そーね。私も、猫や犬はさすがにご免だわ」 家に少し多めに生活費を入れることにして、百グラム百二十八円のカナダ産安売り牛肉を買いだめしてもらうことにした。
 しばらくはそれでしのいでいたけど、しろこはいよいよ空腹を覚え、また弱ってもいた。
 どうして、しろこはあんなところで倒れていたのか理由は聞いていないし、興味もないから、まあ何か事情があったのだろう、ということでそっとしておく。
「そうだ、死なない程度にもらえばいいのよ。あなたにしたみたいに」
「え――」
「私、一気飲みタイプなんだけど、あの時は猫がいたから……、ああ本当に嫌だわ」
「なんで――、きんたろ可愛い――」
「どこがよ! 悍(おぞ)ましい」
 悍ましい。
 猫嫌いの人でもそこまでは言わないんじゃないか。
 むっとしたわけじゃないけど、どうしてかな、とは思った。
 でも訊かない。
 面倒なことになりそうだから。
 夜は静かに過ごしたい。
 仕事もしないといけないし、ずっとしろこにかまってはいられない。
 僕がパソコンで作業をしている間、しろこはマンガや小説を読んで時間を潰していた。
 白熱球の明かりをつけているけど、それがちょうどいいらしく、しろこは黙っているととてもリラックスして見える。
 公園で空腹を抱えて、衰弱して死にそうだったようには見えない。
 僕は、週に一二回、しろこに少しだけ〝献血〟して、レバーや肉をたくさん食べるようにして造血に励んだ。
 小食なので、量を食べるのが結構きついけど、料理をするのは思いのほか楽しかったので、スタミナ料理ばかり作るようになった。
 それでダメ出しをされたのが、ニンニク。
 それも設定じゃないとダメ? 
 しろこは断固ダメ、を通す。
 わがままな女王様、というより、子供の偏食、という感じだった。
 アレはキライ、コレはスキ。
 まあいいや。
 牛肉で、野菜もたくさん使って、炭水化物は控えめにして食べる。
 食べるために、ストレッチや、部屋でできる簡単な運動もするようになった。
 最初はきつかったけど、最近では結構いい感じでできている。
 鏡で見ても、やせっぽちのぼやっとした僕じゃなくて、もう少し角ばったというか、肉がついた。
 そうなると、ビルドアップするのが楽しくなって、ダンベルとか通販してしまう。
 持久力をつけるために、コンパクトなエアロバイクも買った。
 それで〝献血〟して、食べて、運動する。
 僕の身体はどんどん仕上がりつつある。
 運動を始めたことを両親は喜んでいるようだし、色々良かったんじゃないかとさえ思う。
 だけど、僕だっていつまでも生きているわけじゃないし、しろこをずっと部屋に隠しておけるはずもない。
 いつかある別れは、突然訪れた。
 夜になってふらりと外に出て行ったしろこが、朝になっても戻ってこなかったのだ。
 どこかで動けなくなったのか、トラブルに巻き込まれたのか、それとも、もっと効率のいい〝栄養源〟を見つけたのか。
 しろこは、猫のことを嫌いだと言っていたけど、わがままだったり、気まぐれだったり、ふらりといなくなったり、その行動は野良猫に似ている気がした。
「おいで、きんたろー――」
 ドアを開けて呼ぶと、きんたろがにょろりと隙間から入ってくる。
 久しぶりに僕の部屋に入って、きんたろはあちこちに身をこすりつけて、匂いをつけまくっていた。
 しろこの匂いが、きんたろの匂いで上書きされていく。
 もう血を作る必要はない。
 だけど、ダークウェブで採血と血液を保管するのに必要な道具を一通りそろえて、月に二回ほど効率よく血を抜き、保管するようになった。
 僕の自傷行為は、しろこのための〝保存食〟を作る行為になった。しろこが、いつでもふらりと戻ってきていいように。 
 そうして、ある夜、室内の運動では物足りなくなって、ジョギング・ウェアとシューズを一通り通販で購入した。
 それを着て、僕は夜、外に出た。
 入念にストレッチをして、早歩きより少し早い程度から走り始める。
 僕は、僕だけの生活に戻っていく。
 きんたろを懐に入れて、夜散歩に出た時に、出会ったしろこ。そういえば名前も聞かなかったけど、元気でやっているのかな。
 しろこにとっての〝元気〟とは、血を飲んで肉を食べることなんだろう。
 きっと、うまくやっている。

  ハッ ハッ ハッ ハッ ハッ

短く息を吐いて、少しずつ走る速度が上がっていく。
 肉体を動かすと、流れる血を、しろこを感じる。
 だから僕は、満月の夜、走る――。

             ――了――

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