虫のみる夢 5

   5

繁華街は昼時になるにつれて、徐々に賑やかさを増していった。どこを見渡しても虫だらけだ。よくよく考えてみれば、これと同じだけの人の姿をいつも当たり前に見ているのだが、それが虫に変わった途端、その数の多さに目がいくようになる。
アーケード街では、虫が虫に対して様々なものを売りつけていた。肉だったり、魚だったり、調味料だったり、種類はたくさんある。そこで取り扱っている商品は、あくまでもタスクも見知ったいつもの商品だった。
 ある店では、フナムシがエコバックを下げたアブに冷凍マグロを売りつけていた。また別の店では、蟻の売るチョコレートにテントウムシが群れをなしていた。安売りのドラッグストアには様々な虫が長い行列を作っていて、それをトンボの店員が忙しく捌いていた。人間が虫になったからといって、その生活が一変するというわけではないらしい。
 そういえばさっきはあまり気にしなかったが、喫茶店でも皆が普通にコーヒーやカフェラテを飲んでいた。そうして思い返していくと、タスクが見ている目の前の出来事は虫たちにとっては至って普通の光景でしかないようだった。
 榊タスクは、早くもこの状況に慣れ始めていた。
 もしかすると、これらは全て彼の幻覚で、たまたま人が虫に見えているという、ただそれだけのことかもしれない。
 それにしては、あの芋虫に触れた感覚は、妙に現実的ではあったのだが――それでも、おかしくなっているのが自分自身だという仮説は、今の時点では最も筋が通った解釈のように思えた。感情が抜け落ちてしまった時点ですでに十分におかしくなっているのだから、そこからさらにおかしくなろうと不思議はない。
 ひとまず推論がまとまったことで、タスクは空腹を覚え始めていた。無事打ち合わせも終えたことだし、昼食にするにはちょうどいい時間だった。食べ物の匂いを頼りに、繁華街の途中で一本奥まった路地に入ると、一気に視界が暗くなり、人の話し声と美味そうな匂いがあたりに充満していた。
 見ると、立ち飲み屋がずらりと並んでいた。赤い提灯が並んで、客を誘う。昼間だというのに、そこにはすでに夜の雰囲気が醸し出されていた。アルコールと食欲を誘うもつ煮の匂いが一面に漂っている。
 厚手のジャケットや、コートや様々な上着を着た虫が、それぞれのお店に入ってビールを飲んでいる。どの店もぎゅうぎゅうに満席で、狭い店舗の中にはそんな飲んだくれの虫達がひしめき合っていた。
 喧騒が、耳に入ってくる。何を言っているのかは分からない。だが、何だかとても楽しそうだ。隣同士一緒に酒を飲んで顔を赤くして、大笑いしながら喋っては、お互いの肩を小突き合っている。
 少し進むと、今度は焼き鳥の香りが漂ってきた。さらにもう少し奥に入ると、今度は魚が焼ける香ばしい匂いがタスクの鼻をくすぐった。
そうしてお店を覗きながら歩いているうちに、ふと目に留まった一軒の立ち飲み屋に入ることにした。その店には路地側にはみ出すようにビニールで囲いがしてあって、ビールの空ケースを立てて、その上に板を置いてテーブルにしている。テーブルには、醤油や七味唐辛子などの調味料が置いてあり、板には常連達が作った輪染みが、あちこちにびっしりと染みていた。
 こういった店に興味はあって一度入ってみたいと思っていたが、きっかけがなくて入れなかった。それなら今がちょうどいい機会だろう、入ると決めさえすれば後はただ店の暖簾をくぐるだけだ。
 入り口に掛かったビニールの幕をくぐると暖気が頬に触れて、黄色い声が上がった。
「いらっしゃいませー!」
 タスクを真っ先に出迎えたのは、若い女の子の声だった。
 その声の主であるモンシロチョウの彼女は、店内で器用に羽を収納して、左右の手には注文書と鉛筆、それから客に出すためのおしぼりと、ビールジョッキを持っていた。キラキラと明かりを反射する眼がエネルギーに溢れている。白く清楚な羽にアクセントのように墨色の点がひとつ浮いている。歩く度に長い触角が左右に揺れる。
「お好きな席にどうぞー」
 店内をひと通り見渡してちょうど一人分が空いた小さなテーブルを見つけると、そこに肘をのせた。それから、壁にびっしりと張られたメニューの札を眺める。
 ビール一杯三百円。ジョッキでだ。安い。
 昼間からビールを飲むのもどうだろうと考えたみたが、普段ほとんどすることのないことだし、この場にはこの場なりの適切な過ごし方がある。その流れに従ってみよう。
「ビールともつ煮をお願いします」
 モンシロチョウの彼女に注文すると、ぐるりと店内を眺めた。
 店には、名前も知らない虫達がひしめき合い、酒を交わし、笑い合い、ひそひそ話し、またすぐに大声で何かをやりとりしていた。表情は分からなかったが、総じて楽しそうな様子だけは伝わってくる。
 「なかなかいい雰囲気じゃないか」と、いつかテレビで見た俳優の真似をして小声で言ってみる。感情のないタスクには大して意味のある台詞ではなかったが、ただそう言ってみたかっただけだ。感想や好奇心というより、単なるマイクテストに近い。
「お待たせしましたー」
 モンシロチョウが、黒く細い腕とは不釣り合いなボリュームのあるジョッキを手にタスクのもとへ戻ってきた。テーブルに、ごとりと重い音をたててジョッキが置かれる。ビールの重みで腕が折れたりはしないだろうかと、ついいらぬことを考えてしまう。彼女は伝票をサッと置くと、すぐに他の客に呼ばれ、「はーい」と黄色い声を上げながらメモ帳片手にひらひらと行ってしまった。
 ジョッキを持った虫達に囲まれ、同じくジョッキを片手に持つタスク。さて、もしこれが間違い探しなら、間違っているのはタスクの方だろうか、それとも虫達の方だろうか。その答えはタスクにも分からなかったが、答えを求めているわけでもなかったので疑問はすぐに忘れた。
 壁に並ぶ、変色したメニュー札を眺めてみる。冷奴、塩トマト、きゅうりのぬか漬け、ハムたまご、ポテトサラダ、もつ煮など品数が多く、どれも百円から三百円の間で手頃な価格帯だ。仕事が終わった後、こういう店で三、四品を肴に軽く酒を飲めば、それで夜の食事は十分かもしれない。
 あの脚の折れたサラリーバッタも、仕事帰りにはこういうお店に寄るのだろうか。満員電車で揉まれてしわくちゃになったコートを着て、染みのついたテーブルに寄りかかって、残業について愚痴をこぼすサラリーバッタの姿を思い浮かべた。意外と様になっていた。いや、そんなくたびれた彼らだからこそこういった一般大衆向けの安居酒屋に入り、様になり、絵になり、似合うのだ。
 そんなとりとめもないことを考えながら、壁に貼ってある無数のメニューを隅々まで眺める。ひと通りメニューを眺め終わってから、今度は隣のテーブルを客に気づかれないようにそっと覗いてみた。
 すぐそばの席では、蜜蜂の二人組がそれぞれジョッキに口器をつけて、背中の羽をブンブンと鳴らしていた。大きな複眼と小さな三つの単眼がライトで照らされてキラキラと輝いている。蜜蜂だから甘いカクテルの方が似合いそうな気もしたが、ジョッキの中身はタスクと同じ黄金に輝くビールで満たされていた。
 短い触角が二本隣接して生えたような口をしていて、それでは随分ビールが飲みにくそうだという気がしたが、タスクの予想に反して彼らは器用にそれをジョッキに差し込んで飲んでいた。要は花の蜜を飲み込む要領なのかもしれない。
 飲みながら、何度も乾杯をしてはまたグイっとビールをあおり、ジョッキをドスンとテーブルにおいて、お互いの肩を抱きあう。二人で羽をブンブン鳴らしながら、身体を左右に揺らしていた。実に楽しそうだ。何があったのかは分からないが、二人の身振りから察するに、きっと何かとても良いことがあったに違いない。
「お待たせしましたー」
 そうこうしているうちに、モンシロチョウがもつ煮を運んできた。黒く華奢な手で、もつ煮が入った器をサッと置く。無駄な動きがない。彼女はすぐにくるりと背を向けると、またひらひらと白い羽をはためかせながらキッチンへ引っ込んでしまった。
 タスクは、いよいよビールに口をつけた。ビールは思っていた以上によく冷えていて、美味かった。感情をなくす前だったら、まるでCMのような爽快な溜息をついていたことだろう。次につまんでみたもつ煮も臭みがなく味が染みて、よくできている。小鉢に入った量もちょうど良かった。途中で七味を少しだけ振りかけて、また一口食べる。やはり美味い。
 この店はなかなかのあたりかもしれない。追加でポテトサラダを注文し、それがやってくるまで特にすることもなかったので、ビールジョッキの側面についた水滴を眺めていた。
 いつの間にか張り付いた小さな水滴は徐々に大きくなり、そのうちツゥッとジョッキの表面を滴り落ちる。表面に張り付いたまま身動ぎせず、やがて人知れず消えてしまっている水滴もある。
 そうやって眺めているうち、自分はもしかすると周囲で楽しんでいる虫達よりこのビールジョッキの水滴に近い存在なのかもしれないと思った。ただ生まれるままにジョッキに張り付いて、そのまま徐々に大きくなって水の粒になって、最後には垂れ落ちる。そこには何の意思も、感情も必要ない。なんとか落ちまいともがきあがくこともなければ、急いで落ちようと慌てることもない。全ては流れのまま、だ。
「あなた、ちょっと我々と違いますねぇ」
 突然中年男性の声がして、タスクのとりとめもない思考は中断された。
 顔を上げ、周囲を見回して、声をかけた主を探す。タスクの傍、後ろのあたりに誰かが立っているのに気づく。振り返り、そこにあった顔をじっと見た。
 声をかけてきたのは、赤く大きな複眼をした蝿だった。嫌らしい黒い口がこちらを伺うように蠢いているだが、彼は、他の虫達とは大きく異なっていた。
 首から下が、ネクタイに白シャツを着てスラックスを穿いた、太った人間の身体だったのだ。腹は大きくせり出し、彼の普段の不摂生を物語っている。手はずんぐりとしていて、タスクの手とはかなり違う造作だし、かなり毛深かったが、それでも、それはまぎれもなく人間の手だった。
 ネクタイは曲がりシャツは皺だらけ、スラックスは膝が出てヨレヨレだ。しかも丈が足りていないので、毛玉のついた灰色の靴下が靴との間にしっかりと見える。だらしがない性格なのか、自分の見た目について無頓着なのか、以前のタスクなら首を傾げるような服装だった。
 そんな格好をした彼はうんうんと蝿の頭を頷かせ、太い両腕を組んだ。丸い指先が、トントンと腕を叩く。
「わかります、わかりますよぅ、隠さなくてもいいんです。えぇ、えぇ」
「何を言ってるんですか?」
 突然話しかけられた理由が分からず、太った蝿を見つめた。
「あなた、何か特別な感じがしますものねぇ。……わたくしには分かるんですよ、そういうのが」
 ねっとりとした低い声を不気味に潜ませて、囁きかけてくる。斜めに顔をぐっと近づけて、何か人に知られたくない秘密でも打ち明けるように――顔が近づいたことで、光を赤く反射する細かい複眼のひとつひとつがはっきりと見えた。その奥からは、何の感情も読み取れない。
 この男は、人なのだろうか、それとも虫なのだろうか。
 どうして完全な虫ではないのだろう。頭だけが虫――しかも蝿――という格好だと、太った胴体と併せて、古代人が作った土偶か子供が思い描くような宇宙人に見えた。どちらにしても、話して理解し合えるような相手には見えない。
「察するに、何かお困りのことがあるんじゃありませんかぁ? わたくしねぇ、分かるんですよ。そういうの。どうです、わたくしで良ければお手伝いいたしますよぅ」
「何も困ってませんよ。お手伝いも結構です。悪いんですけど、一人で飲みたいんです。放っておいてもらえませんか?」
 蝿にそう言って、タスクはジョッキのビールをまた少し飲んだ。
 だが蝿はしつこく、左右に開いた触角を太い指でいじりながら、言葉を続けた。
「まぁまぁ、そんなつれないことを言わないで。わたくしの話も聞いてくださいよぅ」
「聞いています。でも一人でいたいんです。それだけのことです。何か特別なお願いをしていますか?」
「いえいえ、そんなことはありません。ただねぇ、ちょっとお困りかと思いまして」
「困っていることなんてありません」
「あなたがわたくしを嫌うのは、わかりますよぅ。わたくしはこんななりですからねぇ、人にはよく嫌われます。太ってますしね、服も安物です、ひどい見てくれですが、それがえぇ、まぁ、わたくしですから。慣れっこです」
 まるでタスクの心を見透かしたような彼の話を無感動なまま聞き流していたが、ふと気になる言葉があった。
 
  ――わたくしは、こんななりですからねぇ――

 彼が言う〝なり〟は、もしかして服装のことではなくて、自分の頭が蝿であることを、身体が人間であることを、あるいはその両方を示しているのではないだろうか。思わず、その姿を頭から爪先までジロジロと観察してしまう。
 蠅はそんなタスクの様子を気にしているのか、気にしていないのか、言葉を続ける。
「まぁねぇ、禿げていますし、あぁ、二十代の頃から薄くなり始めましてね、最低賃金で朝から晩まで残業ばかりで休みなく働いておりますよぅ、そのせいでしょうかね。婚期も逃しまして、ストレスとインスタント食品のおかげでこのお腹です。醜いでしょう。いや、全く自分でもイヤになりますよぅ」
 そう言って、蝿はぐぇっぐぇっと笑った。
 以前のタスクなら、間違いなく嫌悪感を抱くようなねっとりとした笑い声だった。
 その笑い声が盛り上がる中、タスクはふと、彼は自分を蝿だとは思っていないのではないか、ということに気づいた。さっき、彼は確かに〝禿げている〟と言った。だが、タスクが見た限り、彼の頭部はどう見ても巨大な蝿のものだった。
 もし彼が自分の頭が蝿だということに気が付いていれば、そもそも禿げているなどと言う以前に、もっと言うことがあるだろう。
 いや、待て、まだ決めつけるには早急すぎる。もしかしたら、蝿には蝿なりの禿げの基準のようなものがあるのかもしれない。蠅事情に明るくないタスクには、それについていまひとつ判断がつかない。
 とはいえ、やはり今見えている光景はタスクだけの幻覚だと考える方が、今のところ最も自然な見解に思える。
 では、何故この男だけが、こんな奇妙な見え方をするのだろうか。人が虫に見えてしまうというだけなら、誰にだってそういうこともあるかもしれない。周りの人間が全て虫に見えたからといって、それはそういう風に見えるというだけの話だ。結局のところ、気にさえしなければどうということはない。
 だが、彼だけは、その中でも特別に異質な存在だった。
 何故彼だけが、人の身体に不自然な蠅の頭(あるいは、蠅の頭に不自然な人の身体かもしれない)を伴ってタスクの目の前に現れたのだろうか。
 人でも蝿でもない。
 人間と蠅の間の存在――蝿人間だ。
 タスクは「ザ・フライ」という古い映画のことを思い出していた。
 目の前の存在はあれほど怖くもないし、悲劇的でもない(もっとも、それは現在の感情のないタスクの基準においてではあるが)。それでも、惨めで哀れな存在であるのは間違いないように思えた。人だけであるよりも、蠅だけであるよりも、不自然で歪な存在だからだ。
 だけど――と榊タスクは考える。
 もし蝿人間だけがそんな風に見えるとしたら、彼はひょっとしてタスクにとって何か特別な存在なのかもしれない。もっとも、それが良い意味なのか、悪い意味なのか、それについては今のところ全くもって判断がつかなかった。
 タスクが考えている間にも、蝿人間は喋り続けていた。
「これはこれは、わたくしとしたことが、大変失礼しました。まだ名乗っていませんでしたねぇ。わたくしはウシカワといいます。動物の牛に、さんずいに可能性の可と書いて、牛河です。どうぞよろしくお願いしますぅ」
 蝿の身体をしておきながら、牛河とは奇妙な組み合わせだと思った。
 相手にはしないと思いながらも、蝿人間の存在が妙に気になる。いや、気に障ると言った方が正確かもしれない。タスクにとって、それは久しぶりの感覚だった。
「それでですねぇ、話というのがですね……」
 タスクが何を考えていようとも、そんなことお構いなしに、牛河は話を続ける。
 正直なところ、牛河の話は全く頭に入ってこなかった。それでも、あの下品な笑い声がする度、徐々に気分が虚ろになっていくような気がした。タスクは久しぶりに湧き起こった感情の扱いに戸惑ってしまう。それがネガティブな方向に向いていることが、なおさらその戸惑いを大きくする。
「あなたが一人にしてくれないなら、僕は帰ります」
 牛河の話を遮るように宣言して、ビールジョッキを置いた。
 別に怒っているわけではなかった。それでも、すぐにでもここから逃げ出したいという僅かな衝動が、タスクの語気を少しだけ強くした。
 牛河が、焦ったように分厚い手をシャカシャカと擦り合わせた。それは蝿の典型的な動作のようにも見えたが、それを人間の手でやると、何かお願い事をする時のような仕草のようにも見えた。
「まぁまぁ、そんなことを言わずに、話を最後まで聞いてくださいよぅ。絶対に損はさせませんから」
 引き留める牛河を無視して伝票を掴むと、彼は未練がましそうにさらに何かを言いかけた。
 そんな時、間が悪く、モンシロチョウがさっき頼んだポテトサラダを持ってやってきた。テーブルに小鉢をサッと置くと、相変わらずひらりと身を翻して鮮やかに去っていく。
 タスクはそのせいで帰るタイミングを逃してしまい、仕方なく伝票をテーブルに戻して、ポテトサラダをじっと見つめることになった。
 牛河のことは、無視するにことにしよう。気にしなければいいだけの話だ。ポテトサラダに罪はない。
「あなたのためになるお話なんですよぅ」
 タスクは、食い下がる牛河の蝿頭が見えないように身体の向きを変えると、ポテトサラダを箸でつまんで、ゆっくりと噛んだ。マヨネーズの具合がちょうどいい。細かく砕いたブラックペッパーが、ピリリと味を引き締めている。
 タスクはポテトサラダに玉ねぎが入っているのが苦手なのだが、これはそれがない。そのかわりスーパーで売られているような薄くてピンク色のハムが入っていて、とても家庭的な味わいだ。
「ねぇねぇ、聞いてくださいよぅ。あっ、わざと無視してわたくしの気を引く気ですね? 可愛いんだから、うふふ」
牛河は無視されているにもかかわらず、しつこく話しかけてくる。
 タスクはそれでも無視を決め込んで、ポテトサラダをまた一口食べた。ジャガイモは適度にほくほくとしていて、マヨネーズの味わいはまろやかだ。ペラペラのハムの塩気がアクセントになっている。それからビールを一口のみ、さらにポテトサラダの底に敷いてあったレタスを囓った。レタスも新鮮でパリッとしていた。
 ポテトサラダを食べながら、タスクはふと考える。自分は何故こんなことをしているのだろう。そう考えた瞬間に、タスクの心はまた頑なに縮こまってしまった。牛河が視界に入らないように天井を見上げた。煙草の煙に燻された黄色い天井。よくよく考えてみれば、大して楽しいわけでもなかった。
 確かに食べ物は美味しいのだが、それはそういう気がするというだけだ。美味しいポテトサラダによって、精神的な満足感を得ることはない。たとえ、昼間からビールをあおって、もつ煮を食べて、ポテトサラダを食べたところで、それはタスクにとって何を意味するものでもないのだ。
 一体何を期待していたのだろう。
 期待?
 そもそも、期待する気持ちがあったのだろうか? 今になってみると、何だかよくわからなくなっていた。
「どうです、ここのポテトサラダは絶品でしょう。他の店ではこうはいきません。わたくしも大好物なんです」
 牛河は、まだいた。気にしないようにしようとしても、どうやっても視界に入ってくる。なにせ、横にも縦にも大きいのだ。蝿たたきがあるなら、今こそ使うべき時のように思えた。カートゥーン・アニメのように、巨大化した蠅たたきを振り回してバシンと音をたてて叩き潰すのだ。そうすると蝿人間は紙のように平べったくなって、蠅たたきからヒラヒラと舞い落ちていく。
「まぁまぁ、そう意固地にならずに、そろそろわたくしの話を聞いてくださいよぅ。あなたは、近々大変な目に遭います。それはもう、ひどい目にですよ。わたくしには、そういうことが分かるんです」
 今度は脅しか。そろそろ潮時だろう。タスクはまだ中身が残ったビールジョッキを置くと、今度こそ確実に会計を済ませるために伝票を持ってレジへ向かった。
「待ってくださいよぅ。後悔しますよ。今はいいですけれどねぇ、わたくしの話を聞かなかったことを、きっと後悔しますよぅ」
 牛河は、ねっとりとした声音で、しつこく言い募ってきた。
 タスクは徹底的に無視する。腹はすでに軽く満たされた。変な蠅人間――牛河――に絡まれはしたが、まずまずの食事だった。店は悪くない。モンシロチョウの女の子は感じがいいし、ポテトサラダも美味しかった。ただ少しだけ、タスクの運が悪かっただけだ。牛河と出会ってしまったのは、最悪と言わないまでも、理屈で考えても不快な出来事だった。
 ビールともつ煮、それからポテトサラダの代金を払うと、立ち飲み屋を出た。
「ありがとうございますー」
 モンシロチョウの彼女の黄色い声が、背中にかかる。振り返ると、モンシロチョウの向こうに、まだあの牛河がいた。相変わらず手を擦り合わせながら、大きな複眼でタスクの方を見ている。
 一体、何を後悔するというのだろう?
「わたくしは警告しましたよぅ。知りませんからね、蟻にはせいぜい気をつけてください。いいですか、蟻ですよぅ。地面を這っている、あの蟻です。きっと覚えておいてくださいよぅ」
 牛河が最後に言っていた言葉だ。
 引っかかったが、大して意味のある言葉には思えなかった。そもそも、何故突然ここで〝蟻〟が出てくるのだろうか。しかも「気をつけろ」と蝿人間は言う。タスクが、蟻にケーキのかわりにとって食われるとでも言うのだろうか。無数の蟻がタスクの体に群がり、バリバリと小さく千切って咥え、黙々と暗い巣穴に持ち帰ってしまうと?
 そんなことがあるはずない。虫の世界は、結局のところタスクの幻覚に過ぎない。もしそうなら、たとえタスクの世界がどれだけ虫で満たされようとも、現実の世界は相変わらず人間で溢れ、淡々と回り続けるということになる。だとすれば、ただの蟻に一体何ができるというのか。
 牛河のことは、忘れることにしよう。酔っ払いにちょっと絡まれたという程度のことだ。気にする程のことではない。
 タスクは、モンシロチョウの彼女の白い羽を思い出しながら、まだ明るいままの道を早足に駅へと歩いた。

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