虫のみる夢 2

 気に入っていた?
 
 改めて考えると、何をそこまで気に入っていたのだろう。そこに何か特別な意味などあるのだろうか。首を傾げながらも、他にすることを思いつかなかった。
 とりあえず、着替えるためにクローゼットを開ける。
出かけるためには着替えなくてはならないが、あれこれ取り出してみても、どうにも決められなかった。どこかに出かけてどう見られたいかによって何を着るか選ぶのではなかったか。今日着る服を選ぶという行為は、思った以上に感情的な判断を必要とするらしい。
 タスクは、普段から決まったブランドの商品しか買わない。ブランドのコンセプトが一環しているので、何も考えずどれを合わせてもそれほどおかしくないし、少しフォーマルに、カジュアルに、と調整ができて簡単で気軽だからだ。おもちゃのロボットの手足をつけたり外したりして交換するのに似ている。かっこいいか、実用的か、イメージに合うか、色々な理由でパーツを交換する。
 それでも、今日は決められなかった。
 仕方がないので適当に手を伸ばして触れた肌着の上に白シャツと淡いブルーのセーターを重ね着して、黒のアシンメトリーなデザインのコートを着た。鏡を見て、それなりにまとまっていることだけは確認した。これならとりあえず街に出て浮くこともなさそうだし。今日の気温にも合っているだろう。それだけ分かれば十分だ。
 なんとかコーディネートを決めてのろのろとマフラーを巻くと、部屋を出た。
 狭いエレベーターの中で、映画館に行くか美術館に行くか迷う。
 迷う。
 まただ。
 とにかく何かしらどちらかを優先するべき理由がないか探してみたところ、もらい物の展示終了間近のチケットを思い出して、美術館に行くことにした。理由としてはそれで十分だろう。チケットは、もらった時に財布にしまったままだった。
 アパートを出て十五分ほど歩いて地下鉄の階段を下りると、改札を抜けて電車に乗った。三駅で目的の駅に到着して、もう一度改札を抜ける。
 美術館に行くには、広大な公園を半分ほど歩いていかなければならない。風もなく天気が良いので、散歩日和だ。以前のタスクなら、こんな日なら少しは浮かれていたのかもしれない。だが今は、土と木と緑の青い匂いを嗅いでも、ふん、と頷くだけだった。
 二十分ほど歩いて到着した美術館は有名な建築家がデザインした二階建てで、全体を本気で観て回ろうとしたら一、二時間は平気で過ぎてしまう。
 今回の企画は、西洋絵画と彫刻。現代アートがもてはやされる最近の流行の中で、少々古くさい内容かもしれない。だが、いずれにせよ芸術は最も感情を揺さぶられるもののひとつではないだろうか。だから、試してみるのには都合がいい。
 自分の感情は果たして本当にどこかに行ってしまったのか。それとも少しだけ居眠りしているだけなのか。とりわけ今の状態に不都合を感じているわけでもなかったが、そのくらいは知っておいても損はないだろう、とタスクは一人納得した。
 ひっそりとしている美術館の中に入ると、休日だからかかなりの観覧者がいた。ほとんどが高齢か初老の男女で、パンフレットやチラシを片手に、神妙な面持ちで絵画を眺めて歩いている。その流れに混じって、絵をひとつひとつ丁寧に眺めていく。
 平凡な風景を細かく描写したもの、柔らかな光を見事に表現したもの、デフォルメされていて何が描かれているのか不明なもの――様々なジャンルが集まっていた。
 一枚ずつ、丁寧に観ていく。筆のタッチ、色合い、光の具合、影のぼかし方や布地・肌の質感など、細かい部分に目をやる。
 そうして時間をかけて何十枚観ただろうか、それでも何ひとつ心動かされるものはなく、結局のところただ作家の技術を眺めて時間を過ごすことになった。
 やはり、タスクの中の感情が動き出すような様子はなかった。
 
 甘い菓子のような色使い
  怒りをぶつけるような角張った筆の跡
  そこにあるのは誰かの想いの痕跡だろうか
  物質化されたその特徴の中に
  何かを読み取れるというのはただの妄想だろうか
  誰かに愛されなかったから
  何かを亡くしたから
  その手紙は決して自分には届かない
 
 一枚の絵の前に立ち止まった。
 一際目立つ太い金縁の絵画で、そこにはすでにたくさんの観覧者が並んでいた。その一団に混じって、白髪交じりの初老男性の髪の毛越しに絵画を覗き見る。
 柔らかそうな草が揺れていて、その上に、全裸の女性が横たわっていた。豊満で色白な肢体を隠そうともせず、左手を差し伸べている。指先は、ほんのり桜色に染めてある。たっぷりとした金髪をなびかせ、彼女は誰かを誘っているようだ。
美しい女性だった。
 それはタスクにも分かる。
 だが、それはあくまで彼の過去の経験に照らし合わせて、客観的な判断を下したに過ぎなかった。造形が洗練されていて、色彩は豊かで、構図も論理的に配置されている。よくできている。
 だが、そこに心が動くような感動や、身体が震えるような高揚感はない。
 一人、また一人と、観覧者が名残惜しそうに美女のもとから離れてゆく。そこに、新しい観覧者が押し寄せる。その波に揺られながら、美女の足の爪先から、小麦色をした頭頂部のつむじまでをじっくりと眺めた。
 しばらくそうしてみたが、ただ時間が過ぎていくだけだった。
 やがて、また新しい観覧者の一群が押しかけてきて、それに押し出されるように絵を後にした。人の流れは、そのまま彫刻のゾーンに続いていた。
 初めに並んでいたのは、様々な人の形をした彫刻たちだった。極端に細長いものから、丸々と太くデフォルメされたものまで、タスクにもそれらが人であるということは認識ができたのだが、だから何だと言われても何とも答えようはなかった。
 次の部屋には、いくつかの何とも言えない形状の物体が乱立していた。
 時に荒々しく、時に滑らかなその彫刻たちは、タスクにとってはもはや技術の評価さえしようがなく、それはつまり歩道の脇のガードレールと何ら変わらない、雑景以外の何物でもなかった。
 そうして、やや天井の高い踊り場のような場所へと抜けた。
 そこには、聞いたことのない名前の彫刻家が彫った男の像が一体だけ、黒々とそびえ立っていた。
 高さは、三メートルはあるだろうか。彫刻の男は少し嫌なことがあったように眉をひそめ、黒い石に穿たれた目の穴から外の世界を見ている。右手はやり場がないようにだらりと垂れ下がり、左手は折り曲げて自分の肩に触れている。
 作者は、どうしてこんな巨人を作ろうと思ったのか。
 時間をかけて、立派な肉体を眺める。それは不自然なほどに逞しくて、ただの人間には辿り着けない、一種の神仏像のような肉体だった。筋肉と髪の隆起と流れの陰影が、ことさら丁寧に削り出されている。気が遠くなるような時間と手間をかけて、細かく仕上げられたのだろう。
 だが、そんなことさえも、タスクの平坦な感情を微塵も動かすことはなかった。そのまま美術館を一周りして、無感動なまま美術館を後にした。
 榊タスクの感情は、どこか彼の手の届かない銀河の果てまで飛んでいってしまっているようだった。
 さらに足を延ばして夕方に映画を観るという手もあったのだが、アプリで放映中の映画のタイトルを検索してすぐにやめた。どれも面白いと思えなかった。
 いや、面白さとのリンクを見つけることができなかった。
 手当たり次第に観てみようかとも思ったが、何を観たところで何かが変わる気もせず、もしそうならそこに費やす金銭も時間も無駄でしかない。
 結局、美術館から続く広大な公園を、ただぶらぶらと歩き始めた。
 その行為自体に何らかの意味を感じたわけではなかったが、休日だし、天気は良いし、しばらく当てもなく歩いてから何をするか決めても良さそうだと考えた。
 だが、数十分後、結局目的も目標も見つけられず、ベンチに腰を下ろしてぼんやりと空を見上げていた。改めて見ても雲ひとつない晴天だった。だからといって、ああそうか、という以上の感想は出てこなかった。
 そこには、空が晴れているという情報だけがあった。
 白いインクを含んだペンで「空が晴れている」と書かれている。
 
  空が晴れている
  雲ひとつなく蒼い
  美女が裸で横たわっている
  三メートルの大男はいつもどこかを見つめている
  足の筋肉がすこしだけ疲れている
  道の脇にはカードレールが延々と続いている

  結局のところ、それらの事実はすべてタスクにとって同じような情報でしかなく、何らかの特別な結果をもたらすものではなかった。もしそうなら、彼が今ここでこうしていることに一体何の意味があるのだろう。
 子供がはしゃぐ声が聴こえる。それを追いかける、母親らしい声も続く。子供達の滑らかな頬は輝くように赤く染まり、美術館で観た天使の絵を思い出させる。そこには、今のタスクにはない鮮やかな色が溢れていて、それが身体の奥から無限に湧き出ているようだった。
 あの感情と同質のものが昨日までの自分にも宿っていたということが、まるで理解できなかった。元気に駆け回る子供の姿をなんとなく目で追って、しばらくの間じっと手を組んでいた。
 真冬とはいえ、首に巻いているマフラーは暑いくらいだった。マフラーをほどいて、再びぼんやりと空を見上げる。
 やはり何も感じない。
 他人が見たら、今の自分はどういう風に見えているのだろう。もしかすると、とてつもなく気味が悪かったり、仏頂面に見えていたりはしないだろうか。気分を悪くしているわけではないのだが、感情が動かないせいか、自然と顔は無表情になる。
 それによってタスク自身が嫌な思いをすることはない。とはいえ、それによって周囲の人が不快になったり、関わりをもたないように、そそくさと避けて逃げていってしまうことがあるかもしれない。
 そうなると、多少の不便さやリスクが生じる可能性はあるだろう。それについては、何らかの対策をする必要を感じた。その一方で、対策に興味を持てないのも現実だった。
 まあ、その時はその時か。
 結局のところ、ただ無表情だからといって誰に文句を言われるものでもない。誰に分かってもらうことも望んでいない。そんなことは気にもならない。そもそも、気にするという思考回路自体がないのだから。
 思い出したようにまた溜息をつこうとしてみたが、それはかつて感じていたような何かしら重みがこもったものではなく、息がいつもより多めに吐き出された、という以上のものは出てこなかった。
 今のタスクには、うまく溜息をつくこともできないようだ。溜息をつくのにも感情が必要なのだということを、彼は改めて理解した。
 そうしてぼうっとしていると、あっという間に夕暮れが訪れた。晴れていた空は、どんよりと夜の重さを湛え、少しずつその勢力を強めていく。空気はしっとりと冷え込んで、足許からゆっくりと白い冷気が這い上がってきていた。
 公園からは、親子連れやカップルが徐々にいなくなり、かわりにホームレスが大きな荷物を持ってうろうろと姿を見せ始めた。
 そんなホームレスの一人が、熱心にゴミ箱を漁っていた。一心不乱と言ってもいいぐらいに、なくしてしまった重要な何かを探し求めているように。そこには、何か断固とした決意のようなものが感じられた。
 彼は、一体何を探しているのだろうか。
 彼は今、どんな感情なのだろうか。
 だけど――とタスクは考える。
 その感情の存在は、果たして彼を幸福にしているのだろうか。それとも不幸にしているのか。
 もっとも、今のタスクにはその幸福と不幸の区別さえできない。
 榊タスクには、感情がない。
 それが彼にとってどのくらい必要なものだったのか、彼自身にも分からない。
 だから彼が今の状態に不便を感じることはなかった。
 だが、小さな棘のような違和感が残っているのも確かだった。

  いつか戻ってきてくれるだろうか
  僕はそれを望んでいるのだろうか
  ぼんやりと淡い霧のようにつかみどころがない
  何をなくしてしまったのかわからないでいる
  それが本当にあったのかさえ思い出せない
  何を手に入れればいいのかわからなくて
  手の平をじっと見下ろしてもわからなくて
  ただわからないということだけが
  僕がただ一つだけわかることだ 

 彼が持っていたはずの、不確かな存在。ある時は喜び、ある時は怒り、ある時は悲しみ、そしてまたある時には楽しむ、そんなあやふやで、不安定で、形がないもの。それでいて、確実にそこにあったはずのもの。
 それはあまりにも突然に、彼を置いていなくなってしまった。
 もしかすると、彼の中にある小さな違和感は、その不在に対する失意のようなものなのかもしれない。
 もしそうなら――タスクは心の中で呟いた。
 それだけでも一歩前進ではないか。
 あっという間に陽は落ちていき、いつの間にか斜めに伸びるタスクの影は、暗闇に溶けて消えてなくなっていた。
 ベンチから立ち上がって、歩き始めた。これから、どこかレストランで夕飯を食べて、食料品の買い物をしてからアパートに戻る。
 広大な公園を横切って、横断歩道を渡りながらタスクは考える。
 
  まあいい、さしあたって感情はそれほど必要ないのかもしれない
  生きるために必要なものは必要だと判断できるし、仕事だってこなせる
  何か必要な作業があれば、それを淡々とこなせるだろう
  冷静な分、混乱も減るはずだ
  混乱がなければ、きっと効率も良くなる
  かえって仕事がはかどるということもあるかもしれない
  それに、もう少し時間が経てば、少しずつ回復していく可能性だってある
  さっき抱いた、微かな失意のように
  それは徐々に徐々に大きくなって、またいつの間にか自己主張し始める
  今は、ただそれを淡々と待てばいいだけだ
  きっとそうだろう

 

 
 数日経って、タスクは自分の考えが甘かったことに気づいた。
 心はどんどん凝りかたまっていって、それはセメントからコンクリートへ変化するように徐々に固まっていった。いつの間にかそれはもう心ではなく、ゴロゴロとした岩の塊のような存在になった。
 固まった心は不快と感じることもない。かといって気にならないかと言えば嘘になる。
 小さな棘のような違和感は、まるで成長の途中で余分にできてしまった行き場のない骨のように、ひっそりと身体の奥に疼いていた。
 バスルームにある鏡で、じっと自分の顔を眺めてみる。
 モデルほど整ってはいないが、特別に醜くもない。平凡な顔つきで、どこか茫洋としている。だが、今、そこにはまるで表情というものが欠けていた。
試しに笑ってみようと唇の端を指でつり上げてみたら、ヒクリ、と頬が引き攣った。顔面が笑うという状態を忘れてしまったようだ。もっとも、心はとうに笑うことを忘れているので、わざわざ笑顔になる必要性も感じなかった。
 それでもどこかに感情の名残のようなものがないだろうか。それを探してみようと試しに本を読み上げて、その声をスマホで録音して聞いてみた。
 再生された声は低く抑揚がなく、大根役者の棒読みの台詞のような調子だった。
 結局のところ、それが今の状態のせいなのか、もとからそんな話し方だったのか。改めて考えてみると、よくわからなかった。
 自分がどのように話していたのかさえ、今は遠い記憶の彼方にしかない。
 そんな状況でも、日常生活には支障がなかった。
 榊タスクは、フリーライターをしている。
 どこの店のオムライスが美味しいとか、個性的なアクセサリーが置いてあるとか、フランスから来た有名パティスリーがオープンしたとか、そういった記事を書いた。
 締め切りは守る。急な依頼もこなせる。だから、それなりに重宝がられた。
 タスクはまだ若く、二、三日程度なら徹夜だってできる。急ぎで、と言われれば急いで原稿を書く。夜明けには、キーボードの打ち過ぎで手首が軽い腱鞘炎を起こしていることもあったが、それだって数日もすればすぐに治る。
 原稿料は、それほど高くない。だが、数をこなせばまとまった原稿料が得られるし、贅沢をするような性格でもない。現在の生活に、今のところ不満はなかった。一人で生きていくには十分な衣食住と、少しばかりだが貯金もある。
 結局のところタスクが仏頂面だろうが、無感動だろうが、彼の仕事には関係はなかった。そこに必要なのは感情豊かな文章であって、感情豊かな書き手ではない。
 朝食のトーストを囓りながら、タスクは考えた。
 このまま感情が戻らなかったとして、何か困ることがあるのだろうか。
 例えば、愛しい人を亡くした時、涙ひとつ出ないとしたら、それはあまりにも残酷ではないだろうか。
 けれど、とタスクは思う。それは結局のところ誰に対しての残酷さなのだろう。その涙を必要とするのは、死んでいく愛しい人なのか、それともタスク自身なのか、あるいはそれ以外の誰かなのか。
 若くて感情のないタスクにとって、死はまだ遠い存在だ。
 それに、このままでは〝愛しい〟という感情さえ芽生えることもないだろう。こんな仮定をしたところで机上の空論でしかない。
 フォークで半熟の目玉焼きを切り分け、とろりと流れ出した黄身をトーストに絡めて食べる。
 美味しい。
 いや、正確にはきっと美味しいと感じるはずの香りと舌の上の刺激が、タスクの神経を通して脳に伝えられる。感情がなくても美味しいものは美味しい。だが、それはあくまでそういう情報として認識されているのに過ぎない。
 以前は、それだけで幸せな気持ちになったというのに、今はそれがない。
 胸の奥の棘が、その食い違いに気が付いて僅かに疼く。
 幸せ? 
 幸せな気持ちとは、どういうものだっただろう。
 
 優しい太陽の光に包まれる
  胸の奥がじんわりと温かくなる
  身体が頭がふうわりと軽くなる
  手足がだんだん解ける
  体が浮き上がる
 
 遠い記憶の中にある映像。脳内で分泌される物質の影響で生み出される幻影かもしれないが、その輪郭は以前の彼にはもっとはっきりと形のあるものだった。
 どうしたら、それを取り戻せるのだろう。心が動き出すきっかけになるような出来事はないだろうか。
 ふと思い立って、スマホを引き寄せた。アドレス帳を呼び出し、先日知り合ったばかりの女の子に電話をかけた。
 呼び出し音がしばらく続く。五回目で女の子が電話に出て、寝起きのように間延びした声で返事があった。彼女の声はどこか別の次元から聞こえてくるようだった。
「榊タスクだよ。覚えてる?」
〈あー、覚えてる。強烈だったから〉
 何が強烈だったのか心当たりはなかったが、何にせよ彼女が自分のことを覚えてくれていたのは幸いだ。
「今日会えないかな」
〈急なのね〉
「そうだね」
 電話の向こうが、しばらく静かになった。
〈いいわよ、夕方だったら〉
 彼女は、囁くように言った。
 それから、簡単に待ち合わせの場所や時間を決めた。
 彼女は、どんな顔をしていただろうか。記憶の引き出しを探る。柔らかく大きな乳房を覚えている。甘ったるい香水の匂いも。だが、その他はぼんやりとしている。
 まあいい、会ってみればきっと顔も思い出すだろう。気を取り直して原稿を書き上げ、約束までの時間をそれなりに忙しく過ごした。
 待ち合わせの時間が近づくと、紺色のジーンズを穿き、裾が斜めにカットされた黒ジャケットを羽織り、マフラーを巻いた。何を着るか選ぶことには、すでに慣れてきていた。
 自分の中に気分という基準がなければ、ルールを作ってしまえばいいだけのことだ。
 それさえ分かっていれば、選ぶということそのものは、もはやそこまで問題にならなくなっていった。街中で見栄えのする、かつ突飛すぎない着こなしについて、タスクはこれまでにも何度か記事を書いてきたし、それなりの知識を持っていた。
 先週手入れをしたばかりのレザースニーカーを履いて、鍵をかけたことを確かめると、待ち合わせ場所へ向かって歩き出した。
 電車を乗り継いで、人でごった返す駅前を縫うように通り過ぎる。
 両手を上げて飛び上がろうとしている少女の銅像の前で、彼女は待っていた。待ち合わせ場所には五分前に着いた。だが、彼女はそれより先に着いていた。
 彼女の顔は記憶の霧の向こうにあったが、すぐに知っている顔だと思い出せた。
 丸顔で垂れ目。
 パンダみたいだ。
 彼女には悪いのだが、あまり頭は良くなさそうだった。パンダちゃん。それが愛嬌だと思えば愛嬌だ。そういうことにしておいた。
「お腹すいた?」
 寒そうに身を縮こまらせたパンダちゃんの一言目が、それだった。タスクが何か言い返す前に、パンダちゃんはスマホをいじり始める。
「この近所に新しくできたイタリアンがあるの。行ってみない?」
 タスクが嫌だと言うことはない。何が〝嫌〟なのか分からないからだ。パンダちゃんがきっぱりと決めたことに、ついていくだけだった。
 パンダちゃんはスマホでマップを見ながらずんずん進んでいく。
 五分ほど歩くと、イタリアの国旗が見えた。夕日を帯びた風にゆらゆらと揺れている。エントランスは使い古した建材を再利用したような味わいのある作りで、木箱に空のワインボトルがぎっしりと詰まっていた。表にはメニュー表があり、価格帯はわりとリーズナブルだ。
「ここ」
 パンダちゃんはそう言うなりドアを押し開け、躊躇なく中に入っていった。タスクのレディファーストは華麗にかわされた。出しかけた手をポケットに入れて、後に続く。
 まあいいか。恥ずかしいとか気まずいとかいう感覚さえないのだから、そういうことで落ち込むことはない。楽といえば楽なものだ。
 レストラン内は夕飯には少し早い時間にもかかわらず混んでおり、開店早々注目されていることが肌で感じられた。
 パンダちゃんは店員に案内されて、さっさと席に着きメニューを開く。タスクが赤いコートと黒いコートをハンガーに掛けて椅子に座ると、パンダちゃんがメニューを振った。
「私、決めちゃっていい?」
 どうぞどうぞ。
 片手を差し出すジェスチャーをすると、パンダちゃんはとても嬉しそうに、メニューに顔を埋めるようにしてじっくりと内容を読み始めた。
 パンダちゃんのようにぐいぐいと決めていってくれるのは、タスクにとってなかなか都合がよかった。選ぶことに随分慣れたとはいえ、もし彼に任されたらもっと多くの時間を要していたことだろう。タスクがそれについて焦ったり気に病んだりすることは一切ないのだが、パンダちゃんを退屈させてしまってはいけないことはわかりきっている。
 そう考えてみると、パンダちゃんとは意外と相性の良い組み合わせなのかもしれなかった。パンダちゃんがリーダーシップをとって、タスクは聞き役に徹する。
 パンダちゃんがメニューを選んでいる間、店内を見回して、小型のシャンデリアや、イタリアの南部あたりから取り寄せたであろう巨大な皿などを眺めた。鶏の形をして極彩色の彩色がされた大型のピッチャーも飾ってあった。
 キッチンからは、ジュージューという何かが炙られる音がして、同時にガーリックやバジルなどの香りが漂い、空腹を刺激した。ひっきりなしに金属がぶつかり合う音がする。かけられる声は短く鋭く、軍隊の精鋭部隊の符丁のようだった。
 黒く長いエプロンをつけた店員が、ワインボトルとグラスを持ってきた。丁寧にパンダちゃんとタスクのワイングラスに注ぎ分けてワインボトルを置くと、頭を下げて去っていく。
「かんぱぁ~い」
 パンダちゃんは甘ったるい声でそう言って、とても嬉しそうにワインを飲み干した。
 タスクも、無言でグラスを傾ける。葡萄とチェリーの味、それにチョコレートに似た微かな香り。リーズナブルだが、美味しいワインだということが分かった。
 パンダちゃんも、美味しそうに飲んでいる。
 パンダちゃんは、ここまでタスクが一言も発していないことに気づいていないのだろうか。それとも、そんなことはどうでもいいことなのだろうか。
 そのどちらだったとしても、今、パンダちゃんはすごく機嫌が良さそうだ。もしそうなら、タスクにとって不都合なことは何もない。
「急に電話してくるなんて、どうしちゃったの? 寂しくなった?」
 もう酔っているのだろうか。肩や腰を妙にくねくねしながら聞いてきた。
「そっかぁー。前に会った時は大勢いたからねぇー」
 タスクは、相変わらず何も言っていない。なのに、会話が進んでいく。今、このテーブルで、不思議な現象が起きていた。ワイングラスの底部に人差し指を当てて、その感触を確かめる。その確かな手触りは、これが夢でないことを証明している。
 次々に運ばれてきた料理は、とてつもなく素晴らしいとは言えなくとも、それなりに美味しく感じた。魚は新鮮で、野菜はパリッと歯ごたえが良く、ソースやドレッシングの出来もいい。
 だが、だからといって楽しくも嬉しくもない。
 ただ、黙々と料理を口に運ぶ。魚を食べて、野菜を食べて、スープをすすって、また魚を食べて……。
 パンダちゃんは料理を一口、口に入れる度に歓声を上げる。タスクが何も言わなくても一切気にならないようで、幸せそうにしている。きっと、とても幸せなのだろう。運ばれてきた料理をひとつひとつスマホで撮影して、美味しそうに食べる。新しい料理が運ばれてくると、それも撮影して、美味しそうに食べる。その繰り返しだ。
 食事の間も、パンダちゃんはよく喋った。よく飲み、よく食べ、よく喋った。
 その間、タスクはパンダちゃんの話に黙って耳を傾け、適度に笑い、相づちを打った。合間にサラダをつつき、スープを飲み、魚をつまみ、パスタを食べた。
 タスクの胃が十分に満たされて座席にもたれた頃、パンダちゃんはティラミスを食べていた。最後の一口まで、名残惜しそうにじっくりと味わっていた。さすがにタスクは満腹だったので、ドルチェはパスした。
 レジで支払いをして(もちろんタスクの奢りだ)無事に食事時間をクリアーすると、ようやくタスクが試したかった瞬間がやってきた。

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