週末、一人キャンプ
もうすぐ夕方になる。完全に暗くなる前に、のんびりと夕飯をたべることにしよう。
缶詰の大ぶりのツナ、それからホワイトアスパラ。火を熾して、スキレットにオリーブオイルを敷いてそれらを炒める。香ばしいかおりがしてきたところで、塩胡椒をふる。
カップに湯を沸かして、その間にコーヒー豆を手挽きする。いい香りが漂う。
葉の香り、枝の香り、土の香り。
様々な香りが、風に乗って僕を包み込んでくる。
それにコーヒー豆や、焼けるツナ、アスパラガスの香りが混ざって、心地よさが広がる。
スキレットの中でジュウジュウと焼けるツナを、フォークですくう。熱々を口に入れて、はふはふと息をはきながら噛んでほぐして、飲み下す。
美味い。
淡いカーキの小さなテントを張って、日差しよけの屋根を立てている。椅子は折りたたみ式。全てがコンパクトに車に収まる。
不便なものはなにもない。
余計なものもなにもない。
邪魔なものはなにもない。
快適だ。
近くにテントを張る誰かもいない。見渡す限り、遠くに明かりが見えるだけでこの周辺にいるのは自分一人のようだった。
そういう場所を選んだ。
そう、ここがいい。
コーヒーを淹れて、口をつける。選りすぐった豆だ、美味しい。それは最初から決まっていたことだ。
もう少し何か食べたくて、食料を入れたバッグを探った。
生パスタが出てきた。それからミートソースのレトルトパウチ。そうだ、パスタにしよう。
湯を鍋で沸かし、もうひとつの少し小さめの鍋でミートソースを温めた。その間、コルクを抜いた赤ワインを少し加え、ハーブをふり、粉チーズをかける。器に盛り付けて、最後にオリーブオイルと黒胡椒を少しだけ回しかける。
茹でたての生パスタに手を加えたミートソースをかけ、フォークでくるくると巻き取る。息をふきかけて、頬張る。美味い。
ワインをステムのないワイングラスへ注ぎ、ちびりと飲む。
ああ、幸せだ。
時間に追われることもなく、誰かに呼び出されることもなく、近所の騒音に悩まされることもない。静かで安寧な時間がゆったりと流れている。
ここに通うようになって、半年経つだろうか。
半年。
半年は、僕にとって特別な時間だった。
半年前に、妻がいなくなった。何も書き置きを残さず、メッセージもなく、電話をかけてみたらスマホは解約済みだった。
何が悪かったのか、僕にはわからない。ある日、妻は何の前触れもなくいなくなったのだ。
最初は事件性を疑って警察へ捜索願を届け出た。だけど、いつまで待っても彼女が戻ってくることはなかった。
目撃者もいない、部屋で争った様子もない、トラブルを抱えていたという話も聞いたことはない。ある日、突然消えてしまったのだ。
半年は長いようで、思い出してみると短かった。
あっという間に過ぎてしまった。
今なら、そう思える。
最初は、一日、また一日、とのろのろと進んでいた。夜が明ける度に、絶望していた。
だけど、少しずつ妻がいない生活に慣れていって、キャンプを一人でするようにまでなった。
妻がいなくなって、一人で食事をし、眠るだけのキャンプ。散策したり、アクティビティに参加したりしない。
ただぼんやりと燃える薪を眺め、時間をかけて食事を作り、のんびりと過ごす。眠くなったら種火だけ残して寝てしまう。起きた時が朝だ。火起こしから始める。
ほぼ毎週ここに通うようになって、半年。
半年間、僕の生活に変化はない。
それが良いことか悪いことか、それはわからない。
だけど心地よく過ごせているのだから、きっと良いことのなのだろう。
キャンピングチェアに深く凭れて、腹の上で指を組む。
夜が更けて、真っ黒な空にはたくさんの星が見える。都会では見ることが出来ない自然の景色だ。
美しい夜空を見上げながら、妻のことを思い出す。
夏の日差しに透ける後れ毛だとか、抱きしめた時の肌の香りだとか、ふと触れた時の指先の冷たさだとか、そういうことだ。
今でもはっきり覚えているのは、不思議なことだった。
顔はどうだっただろう。徐々に顔を忘れて云ってしまう。会えばきっと思い出すのだろう。だけど、覚えているのは些細なことばかりだ。
妻が作ったコールスローを思い出す。キャベツと、人参と、コーンが混ざったシンプルな味付けのコールスロー。それにステーキを合わせるのがとても気に入っていた。
どうして今頃、そんなことを思い出すのだろう。
きっとこの場所がそうさせるのだろう。
一人で酒なんてのんでいると、なんとなくセンチメンタルな気分になってしまう。
妻のことを思い出しては、ビールをチビリと飲む。
ランプに照らされる中で、持ち込んだ小説を読む。仄暗い中で読む小説も雰囲気があっていい。気に入った時間の過ごし方だ。
そういえばこの本も、妻が買ってきたものだ。人気作者の推理もので、僕はあまり読まないけど、妻は好んだ。今なら、少しだけ良さがわかるような気がする。
なあどうだろう、この小説では誰が犯人だろうね?
誰がどんな理由で殺したんだろう。
そんな物騒なことを考えてしまう。
誰もそれに答えてくれるはずもない。
アルコールが回ってきて、少し眠くなってきた。小説をおいて、テントへ入る。
夏が終わる頃で、それほど寒くはない。毛布を一枚かぶって、目を閉じる。
虫が鳴き始めていた。
キャンプをしていると、いつも何かの音がする。
それは自然の息づかいで、鼓動だった。
それらに包まれて、僕は眠る。
種火から火を熾して、顔を洗っている間に湯を沸かす。コーヒーを淹れて、ゆっくりと飲んだ。
朝食は目玉焼きとベーコンとコーンスープだ。炙ったパンにマスタードを塗って、目玉焼きとベーコンを挟んで食べる。香ばしくとろりとした味わいが口の中に広がる。
時間をかけて、朝食を食べる。
何もかもがゆっくりと過ぎていく。
一人で過ごす時間はひどくゆっくりとしている。
部屋のキッチンで作る食事とは大きく異なる。
火を熾すのだって一苦労だ。
食材を熱するのにも時間がかかる。
焦ることなくのんびりと野菜やハーブの下処理をして、夕食用のスープを作る。保冷剤と一緒にクーラーボックスに入れていた牛テールを鍋に入れて、さらにコトコトと煮る。
灰汁と脂を丁寧にすくい取って、澄んだスープを作る。
野菜から出汁が出て、ハーブの香りが鼻をくすぐる。
いい匂いだ。よくできている。
こうやって時間を過ごすことは、部屋ではできない。
スープに手をかけて、ただぼうっと過ごす。
まだ日が高いが、これもキャンプの醍醐味だ。昼間のうちからビールを一本空ける。グラスについで、少しずつ口に含む。しゅわしゅわと舌の上ではじける炭酸と苦みを感じる。
目を閉じて、耳を澄ませる。
サラサラと葉がこすれる音がする。
土が含む少し鉄臭い香り。
虫がカサコソと歩き回る音。
様々な生き物に囲まれている。
ビールをちびりと飲む。
明日は引き上げて、いつもの仕事がはじまる。でも週末になれば、またここにくる。決まったようにテントを張って、かまどを作り、キャンピングチェアでビールをチビチビと飲みながら一日を過ごす。
今のところ、そんな生活に満足していた。僕にぴったりの週末の過ごし方だ。
妻がいた頃は、彼女の趣味のキャンプに付き合う程度で、趣味らしい趣味は持っていなかった。せいぜい図書館で本を借りて読む程度だ。
だけど今は、妻なしでもキャンプをしている。
妻がいた時のように、過ごしている。
妻は僕のことを、「退屈な人間」だと評価した。ケンカもせず、わがままも言わず、大人しく自分なりの生活をしていたつもりだったけど、妻にとっては退屈な人間だったらしい。
それでもそばにいてくれたのだから、妻は我慢してくれていたのか、受け入れてくれていたのか、それとも密かに不満を抱えていたのか、今ではそれさえわからない。
本心では僕をどう思っていたんだい?
目を閉じて、虫の音に耳を澄ましながら考える。
誰も返事はしてくれない。当然だ、僕以外は誰もいないのだから。
それでも、返事をしてくれるような気がした。
夕方になると牛テールスープを少しずつ味わい、パンをひたして食べた。一人で食べるのが贅沢なくらい美味かった。最高の味わいだ。
牛テールは圧力鍋で調理する方法もあるが、やはり直火でコトコトと煮込んだ方が美味い。スープは澄んでいるのにとろりとして、脂のコクがあるのにさっぱりしている。
塩気が足りなかったので、少し足した。それからまたスープを飲む。
ビールとよく会う。脂で覆われた舌が、ビールで洗われる。
柔らかいゼラチン質の身を食べる。夜は寒くなってきた頃に、熱いスープは染みる。
満月が真上に上がるまで、飽きもせず少しずつスープとビールを飲み続けた。
朝になって、軽くストレッチをすると、そそくさと片付けをはじめた。ゴミをまとめ、テントや屋根、キャンピングチェアを汚れをとって折りたたんで袋にしまい、車の荷台に載せる。火が消えていることを再三確認して、テントや薪のあとができたのを足でならして枯れ葉をのせる。
妻の思い出も、そこに埋めた。妻のお気に入りの菓子店の缶ケースに入れて、土に埋めた。いつか掘り出す時がくるだろうか。それまで埋めておくことにする。
忘れ物がないか最終確認をして、車に乗り込む。
昼間になる前に、キャンプ地を後にした。
週末になれば、またここにくるだろう。
その行動に変更はない。
今のところ、やめるつもりはない。
その生活に不便や不満はない。
何より、今ではすっかり楽しみになっている。
一人キャンプ。
大勢で賑やかにやるだけがキャンプではない。
静かに過ごしてもいいではないか。
一人静かに。
――了――
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