虫のみる夢 3
「行く?」
タスクが言うまでもなく、パンダちゃんがそう言った。指を絡めてきて、ラブホテル街へ足を向ける。
パンダちゃんとは、初対面の時にもセックスをした。何故かと訊かれても、答えられない。合コンのような飲み会をした後、帰り道が途中まで一緒になって、なんとなくそういう流れになっただけだった。
パンダちゃんのことは特に好みではなかったし、誰でもいいからとにかくセックスをしたいというほど性欲の処理に切羽詰まってもいなかった。それでもその誘いに乗ったのは、ただ、断る理由がなかっただけだ。
「この部屋がいいかなぁ~」
パンダちゃんはタスクの手を引いてさっさとホテルに入ると、無人のホールで内装写真つきのパネルを見ながら部屋を選ぶ。
「南国風もいいなぁ~。バリだって! 色々あって楽しそう」
袖を引かれて見てみると、本当に色々な種類の部屋があった。部屋の中ですることといったらひとつに決まっているのに、どうしてこんなにも種類が増えてしまったのだろう。部屋の紹介文を読んでみると、ゲーム、カラオケ、ミニシアター、PC、ビリヤード台がある部屋まであった。
前に使ったラブホテルは、テレビとベッド、それからガラス張りの広い風呂があるだけでシンプルなデザインだった。
以前の自分なら、この様々なバリエーションを前にしてパンダちゃんと一緒に盛り上がることができたのだろうか。
少し考えてみたが、実のところこの点に関して言えば、今も以前も興味のなさは対して変わらなかったのではないかという気もする。
いいさ、パンダちゃんに任せよう。どうせ自分に選択権はないのだから。タスクはそう考えて黙って立っていた。
パンダちゃんはじっくり時間をかけて部屋を選ぶと、パネルの角についたスイッチを押した。タスクが現金をスリットに入れるとスイッチが点滅して、入室可能の状態になったことを知らせた。パネルの下からカードキーが排出されて、それをパンダちゃんが引き抜く。エレベーターホールへ向かうと、上へ向かうボタンを押した。
エレベーターが来るまでの間、パンダちゃんは一人でスマホをいじっていた。
タスクは黙ってエレベーターのドアを見つめている。
二人とも、これからラブホテルの部屋に入ろうという雰囲気ではない。
あっさりとしていて、どこにでもある風景のようで、これから何かが起こるような気配は微塵もない。たまたまエレベーターに乗り合わせた他人と言っても、違和感がないかもしれない。
エレベーターがやってきて、扉がゆっくりと開く。赤い絨毯を踏んでエレベーターに乗り込むと、選んだ部屋の階のボタンを押す。次に「閉」のボタンを押すと、ゆっくりと扉が閉まる。
ドアが閉まると、密室になったせいか、古い絨毯らしい埃っぽい臭いがした。
エレベーターが登っていく間、急にパンダちゃんがタスクの頬にキスをした。タスクとしては、どう返せばいいか分からない。キスをしかえせばいいのか、腰でも抱けばいいのか。パンダちゃんはどういう反応を望んでいるのだろうか。現在に限らず、以前のタスクにとってさえ、それはなかなかの難題だったに違いない。
考えても答えは出ず、仕方がないので少しだけ微笑んでから、黙ってエレベーターのドアを眺めていた。パンダちゃんはその反応に満足したのか、タスクの腕に腕を絡ませてもたれかかってきた。
エレベーターから出ると案内に従って薄暗い廊下を進み、部屋番号を確かめた。センサーにカードキーを翳して部屋に入ると、パンダちゃんは迷わずクイーンサイズのベッドに飛び込んだ。
「わぁ~、広い! いいねぇ! 映画見られるよぉ、映画!」
だが限られた時間でタスクがしたいことは、映画鑑賞などではない。はしゃぐパンダちゃんのブラウスのボタンをひとつひとつ外して、鎖骨を撫でた。彼女は、全体的に少しふっくらとした体型で、鎖骨も同様にふっくらとしている。
「あれ、もう?」
パンダちゃんがいたずらっぽい笑みを見せる。パンダちゃんは自分からブラウスを脱ぎ、ブラジャーを外して、あっけないほど簡単に白い乳房を見せた。丸く膨らんだ乳房は、美術館で見た絵画を思い出させた。タスクは手を伸ばして、乳房に触れてみる。
「冷たいっ」
パンダちゃんが笑って、タスクの手を叩いた。手が冷えていたのだろう。それでも、パンダちゃんの方からぐいと乳房を押し付けてくる。それからスカートのファスナーを下ろして、足を使って器用に脱ぐ。
「タイツは恥ずかしいから、あっち向いてて」
タスクは、言われた通りに、パンダちゃんが指す〝あっち〟を向いた。
しばらくして、ゴソゴソとした音がなくなったと思ってベッドを見ると、パンダちゃんは布団に潜り込みタスクを見ていた。柔らかそうな肩が上からの光を反射している。
タスクは、ジャケットとニット、シャツを脱ぐと、続いてジーンズ、靴下、ボクサーパンツを脱いだ。
全裸だ。
パンダちゃんは、セックスの前にシャワーを浴びない主義らしい。汗の匂いが好きだから、という理由だった。タスクも特に気にせず、それに倣う。
布団に入ると、パンダちゃんが身体を寄せてきた。柔らかい肉が、彼の身体のあちこちに触れる。パンダちゃんが彼の髪を撫でる。まるで、母親が我が子に「いい子いい子」をするようなやり方だった。
パンダちゃんの丸いお尻をそっと触って、乳房に触れた。乳首は尖っていて、指先が触れるとぴくりと体が跳ねる。
そうしながら、自分は何をしているのだろうと、漠然と考えた。
結果から言うと、何も感じなかった。
勃起さえしなかった。パンダちゃんが熱心にフェラチオまでしてくれたのに、タスクのペニスはぐんなりと垂れたままだった。
どうやら、感情と共に、ペニスも休暇をとることにしたらしい。
新しい発見だった。
パンダちゃんは、タスクが勃起しなかったことを怒ってはいなかった。「そんな時もあるよ」、とケラケラと笑って流してくれた。
もちろん、タスク自身が勃起しなかったことについて罪悪感や失望を感じることはなかった。ああそうだ、そういえば勃起しなかったな。それだけだ。
タスクの実験は、こうして終了した。
パンダちゃんは「セックスはできないけど映画は観れるし」と休憩時間いっぱいに映画を楽しんだ。
パンダちゃんが選んだ映画の内容は、銃をバンバン射ち合って、あちこちが大爆発して、車が何台も暴走して、何度死んだか分からないくらいに傷つきながらも復活する不死身のヒーローの話だった。
やたらめったらに起こる大爆発が、そのたびに大音量で肌を震わせる。
パンダちゃんはそれをキャーキャーと歓声を上げながら楽しそうに観ていたが、タスクにとって、それは激しく場面の入れ替わる映像の集まりでしかなかった。
観客を驚かせるように仕込まれた場面でも、パンダちゃんが跳ね上がったにもかかわらず、タスクは身動ぎもせずテレビという板を見つめていた。
とはいえ、それが退屈かというと、そういうわけでもない。
そもそもどんなに眺めていても、〝飽きる〟ということはない。一日中見ていろと言われたら、見ることもできるだろう。
結局のところ、退屈するというのだってひとつの感情なのだ。
「あー面白かった。また会おうね」
ラブホテルでの映画鑑賞を満喫すると、パンダちゃんはそう言ってあっさりと去っていった。
パンダちゃんの少し丸い後ろ姿は、すぐに人混みの中にかき消える。そこには何の余韻もない。喪失感や寂しさもない。
特に他にやることもないので、すぐに家路につこうと歩き始めた。
途中で立ち飲み屋街を通り抜けると、中年男性の濁声や女性の笑い声があちこちから聞こえてきた。
みんな、本当に楽しそうだ。もちろん、中には泣いたり腹を立てたりしている人もいるのだろうが、それも合わせて活気に満ち溢れている。
その感情の塊が、ますますタスクを透明にした。いや、透明というより、薄ぼんやりした影のような存在にしたといった方が近いのかもしれない。
きっと彼らにとって、タスクの存在はそういった影のようなものに過ぎないのだ。それはちょうど、タスクにとって彼らが雑景にしか見えないのと同じように。
家に着く頃には真夜中近くになって、寒さが強まっていた。
冷たくこわばった手で鍵を開けると、ドアの隙間から滑り込むように部屋の中へ入った。靴を丁寧に脱いだ。感情がなくなってから何もかも丁寧にするようになった。どうかすると、あらゆることに無関心になってしまうからだ。
だから、靴をきちんと揃える。
電灯とエアコンをつけて、テレビをつけた。深夜のニュース番組が放送されているのを、ソファに座って眺める。
部屋が暖まった頃合いでようやくジャケットを脱いで、クシャミをひとつする。
テレビを眺めていると、相変わらず世界のどこかでテロや戦争や、飢餓や犯罪が起きていることがわかった。
そんな情報をピクリとも表情を変えず一定のトーンで伝えるアナウンサーを見ていると、彼らになら今のタスクの感覚をそれなりに分かってもらえるのではないかと思った。
もしかして自分がアナウンサーになったら、とタスクは考えてみる。途中でどんなに驚くようなニュースが入っても淡々と伝えることができるのではないだろうか。
サクラの開花も、交通事故も、タスクにとってはすべてただの伝えるべき情報でしかない。それをただひたすら淡々と読み上げるのだ。
けれど、と、タスクはすぐにその可能性を自分で否定した。
アナウンサーにはアナウンサーとしての専門的な技術があり、それは発音の仕方であったり、声音の強弱であったり、読み上げる緩急があったりするのだろう。
そもそも彼らの冷静さは、プロフェッショナルとして高い能力と意識、知識と訓練から生まれたものだ。タスクのようにそもそも感情がないのではなくて、表に出てこないように巧妙にコントロールしているにすぎない。
それに、とタスクは付け加える。自分はもともと不特定多数の人間の前で話すのがあまり得意な方ではない。好きでもない。いくら感情がなくても、それは変わらないだろう。
テレビを消す。テレビの画面がプツリと暗くなるのに合わせ、タスクの意識もテレビから離れる。
それからパソコンを開く。意識はすぐに仕事の方に切り替わる。
感情をなくしてから、行動の切り替えが早くなった気がする。
切り替えが早いのは、思い立って悩むことがないからだ。以前は行動ひとつ起こすにも、もっと色々なことに迷っていたような記憶がある。
テレビをもう少しつけておこうか消そうか、暖房を入れようか入れないでおこうか、その前にコーヒーを淹れておこうか、部屋着に着替えようか、靴下を履き替えようか……そんなごちゃごちゃしたことを考えずに、何かしようと思ったらすぐにする。思い立ってから行動に移すまでに、何もない。
期待も、躊躇も、余韻もない。
空白さえない。
だから、次の行動に速やかに切り替わる。
とにかく、パソコンを開いて、仕事のメールチェックをする。出かける前に入稿した原稿に、早くもΟKが出ていた。これで仕事がひとつ完了。
そこには嬉しさも、達成感もない。かといって、やりたくないわけでもない。必要な仕事であれば、面倒と思うこともなく淡々と作業できる。
そして、生きていくためにはそういった仕事をこなす必要がある。以上。
仕事があっさりと片付いたので、タスクは、ぼんやりとパソコンの画面を見つめていた。
無気力
無力感
脱力感
疲労感
似たような症状を探してみたけれど、どれも当てはまらなかった。
彼の身体は、至って健康だ。仕事もできる。食事もできる。家事もできる。
何かをやりたいと思うことはないが、何かをやりたくないと思うこともない。
とにかく仕事や生活に関することなら、必要と思うことなら、何でもいつも通りこなせる。
ただ感情だけが、すっぽりと抜け落ちてしまっただけだ。子供の乳歯がある日ぐらついて突然スポンと抜けてしまうように。
では、どうして榊タスクの感情は、彼一人を残していなくなってしまったのか。
自分のことが、そんなに嫌だったのか。
何かのきっかけで怒らせてしまい、こんな奴のところはさっさと出て行って別のいい人間のところに行こうぜ、と感情達が熱弁をふるって話しあったりしたのだろうか。
タスクはまるでシナリオを書くようにそんなことを淡々と考えた。
だからといって、それについて彼が悲しむことはない。
動揺することも、怒り出すことも、もちろん喜ぶことだってない。
物語は、最後にはただその事実を「へえ」と言って受け止めるタスクの姿で終わる。
ドラマとしては、間違いなく失敗作だろう。
もはや感情がないという状態の方が、彼にとって自然なものになりつつあった。
それには、いいこともそれなりにあった。
悩まなくなった。
動揺しなくなった。
仕事が速くなった。
裸の女の子を前に勃起しなくても、落ち込まなくなった。
心は常に平穏で、どこまでもなだらかだ。
もっとも、それは変わり映えのしない砂漠の景色のようで、喜怒哀楽が迸るオアシスだってどこにもない。
それがいいことなのかどうか、当然のごとくタスクには判断ができない。
物思いにふけっていると、メール着信の知らせがモニターの右端に出た。メールボックスを開くと、急ぎの仕事があるとのことだった。即ΟKを出す。
どうせ今夜は眠れそうになかった。だから、ただ黙々とキーボードは叩くのにはいい夜だろう。
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