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サイコスリラー×百合『毒娘』の話と女性が女性に愛されることの難しさの話


なんとなくチケットをiPhoneのケースに挟んでいたら
「毒娘てなんですか……」と引かれたり「調べたけどすげえつまらなさそう」とディスられたりした。
わたしは職場の脳筋野郎どもを許さない。

まず最初に

わたしは百合、すなわちGL(ガールズラブ)といわれる女性同士の関係性を描いた物語が大好きだ。

小学生の頃に「初恋の男の子と再会したと思ったら本当は女の子で!?でも胸のときめきが抑えられない……わたしも女の子であの子も女の子なのに……友達なのに……どうしよう……😣✨」というような少女漫画を読んで以来、女性同士の入り組んだ感情そのものが性的嗜好にぶっ刺さったまま20年近い人間である。

ただ百合といってもオタクによって捉え方はさまざまだ。
淡く幼い恋愛感情だけを百合と認識して性的な描写は百合でないというプラトニック派もいれば、自分自身もレズビアンでただ純粋に自身と属性の近い恋愛物として百合を認識しているものもいれば、女同士の間に発生する感情や言動すべてを百合と認識する過激派もいる。

わたしはその過激派といえよう。

どちゃくそエロい性描写から、ほのぼのとした恋愛もお互いを尊重し合う友愛も、あるいは嫉妬や愛憎までわたしはすべて百合と見なす。すべてである。

女と女のあいだにあるものはすべて百合

ガールズラブといわれるくらいなのでやはり百合の王道は恋愛ものといえよう。確かにわたし自身、お話としては学生同士の恋とは呼べないほど淡い関係も、大人の余裕がある恋愛のようでそうでないような遊びの関係も大好きだ。

百合において恋愛ものは最も需要があるだろう、なのでそのぶん供給量が多い。(そもそも女同士の恋愛イコール百合と呼ぶ人もいるくらいである。)

では、『毒娘』はどのジャンルの百合といえるだろうか。

「社会」からこぼれ落ちた少女たちの百合

わかっているのだ。
『毒娘』は、とある郊外で他者に度のすぎた危害を加えるため孤立して腫れ物のように扱われているちーちゃんという少女と、そのちーちゃんが以前住んでいた一軒家に越してきた家族の一人である萌花という少女の百合だと。

その通りである。否定はしない。
大好きなお母さんを父親から奪われだと思えば、知らない女性を新しい母親だといわれ、あまつさえその二人が子作りをしようとしていると知ってしまった思春期の少女である萌花。
学校にもいかず、他者に心を閉ざしているところに、ひとりでも堂々として、人から目を背けられるような反社会的な言動をいっさい躊躇しない少女・ちーちゃんが現れる。

最初はみんなのように彼女に対して得体の知れない恐怖を覚えていた萌花は次第にちーちゃんに惹かれていき、ちーちゃんもそんな萌花に心を許していく。

この家をふたりのものにしよう。
そんなふうに家中をめちゃくちゃにして、お互いがお互いをめちゃくちゃにして、ふたりで馬鹿みたいにはしゃぐ。自分の心のうちやみっともない姿を見せ合う。

もう三十にもなる大人であるわたしが未成年の少女をそのように眼差すのは理性がモラル的にブレーキをかけてしまうが、やはり美しく描かれているなと感じる。
これはこれで尊い百合なのだ。間違いない。

ただ、それ以上に、わたしにぶっ刺さった百合がある。

義母と娘の百合

おそらく現代日本において大多数の人間をまず初めに愛してくれるのは母親であろう。
しかし母親からの愛を疑わずに育つことができるのは当たり前のようで当たり前でない。とくにわたしのような育ちの悪い人間からしたら。

そして萌花の義母にあたる萩乃も「育ちの悪い」人間だ。
萩乃は血の繋がらない萌花と適度な距離を取りながらも、ときには慎重に踏み込み、少しずつ歩み寄りながら、自身が与えられなかった愛を血の繋がりのない萌花に必死に注ごうとする。
その姿は、自身の結婚相手であり、萌花の父親である篤紘よりも萌花を真摯に大切におもっているようにすら見えた、し、その後の言動からしても確実にそう解釈できた。男より女を優先する女、完全な百合である。

女が女に愛される難しさ

わたしは「母親」という存在と、自分の性別にコンプレックスがある。
異性愛者が多数をしめる人間という生き物にとって、女性として生まれるということは、同性である女性から恋心や性愛的な関心を持たれる可能性が低い生き物として生まれつくということなのだ。

ざっくりいえば男性として生まれれば、地球上にいる8割9割の女性の恋愛や性愛の対象になりえるが、女性として生まれれば、1割2割の女性にしかそのような対象として見なされない。

恋愛や性愛の対象にあたる性別だからといって簡単に愛し愛されの関係になれるわけではないことは百も承知なのだが、性的指向はなかなかにブレないものであることも間違いない。
女性に生まれるということは、男性にくらべれば、女性から身も心も愛される経験を得づらい人生を歩むこととなるといっても過言ではないのではないだろうか。

女性は男性に比べ、母親をはじめとする血の繋がった家族以外の女性から愛されるに至りづらいのだ。
なんなら夫や息子を娘より贔屓する母親もめずらしくない。さいあくである。

わたしは自身を女性かつ異性愛者だと自認している。
とくだん男性になりたいと思ったことはなく、交際も性行為も男性相手としか経験がないし、現在は男性と婚姻関係を結んでいる。
どこからどうみても立派な異性愛者の女である。
そこに疑問を持ち出すと自分探しの迷路にハマってしまうのでもはや疑うことを諦めている。

ただ自我が芽生えた以降にあらわれた「女性に愛されて慈しまれ、わたしも相手を愛して慈しみたい」という欲求がどうしても消えない。
果たしてこの欲求が性愛からくるものなのか、母子関係の原体験の歪みからくるものなのかはもはや考えたくないのである。
ただ今までわたしのことを慈愛で包みこんでくれたのは男性しかいなかったのだ。それを与えてくれたのが男性だったから、わたしは彼らにそれを返したくなる。
ただ相手が女性だったら、と、毎回あたまにはよぎるのだ。

やわらかであたたかい女の人に抱きしめられながら、心底愛おしいという眼差しで見つめてもらえたら、その場でもう死んでもいいなとすら思う。

少女同士の百合も美しいが、血縁のない母子同士の百合の美しさがなによりわたしの癖にぶっ刺さりました

『毒娘』の感想を端的に述べると上記になる。
大好きだった母親を父親によって奪われ、あたらしい母親である萩乃に心を開きつつあったが、ちーちゃんにそそのかされて自分たち家族の住む一軒家を「わたしたちだけの家」にしようとする萌花。

完全にキルする心づもりで夫や自分を傷つけようとする萌花とちーちゃんに怯まず、自分のように「家族」に翻弄されて自身の人生を投げ出してはほしくないと必死に説諭する萩乃の言動は、間違いなく萌花への純粋な愛情に溢れていた。だから萌花は罪を犯してしまったが、最後は前を向けたのだろう。
作中では描かれなかったが、萩乃もそんな萌花を支え続けるはずだ。
萩乃の存在が、萩乃からの愛がなければ、萌花はわたしのような思考の迷路にハマって人生を崩壊させていた可能性すらある。
血縁に依らない母と子の、女同士の信頼関係、これ以上に尊いものがあるだろうか。まじ百合でしかない。

最高。


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