アンダルシアの外へ1~Cáceres
珍しく、アンダルシアを出た。
2月のことだ。
年末年始と私が仕事で休みがとれなかったせいか、夫がすねた。
しばらくぶつぶつ言っていたが、1月後半になると「こうでもしないと休まないでしょう!」と言い、夫は私に旅行のプレゼンをした。
手書きのメモには「エストレマドゥーラ地方、イベリコ豚」と書いてあった。
久しぶりの旅行、それもアンダルシアの外。
これまでスペイン国内を旅したことはほとんどない。
5分と待たず、夫の提案は可決された。
◆
エストレマドゥーラ地方を訪れるのは、もちろん初めてだ。
アンダルシアじゃないので、なるべく暖かい格好をしてくださいという夫の言葉に、ユニクロのダウンを持っていくことにした。
2泊3日の旅。
最初の目的地はカセレスとなった。
カセレスといえば、世界遺産に登録されている旧市街が有名だ。
(カセレス市役所のホームページ。動画がとても美しかったので、よろしければご覧ください)
また、トルタ・デル・カサールというチーズはカセレスの名物らしい。
イベリコ豚にカセレスのチーズ。
期待が高まる。
長時間のドライブになるので、朝早く出る予定だった。しかし、実際に家を出たのは予定した時間より2時間ほど遅れている。当たり前だが、これが後から効いてくる。
2月下旬、さすがのアンダルシアもまだ肌寒い。
道中、窓からは城や要塞のような建物が見える。
城好きの夫は嬉しそうだ。いつか全部まわるんですよ!と興奮している。
アンダルシアを出ると、空の色が変わった。
途中、何度か休憩をした。
休憩のたびに何か食べるので、持ってきたボカディージョだけでは足りなくなった。
途中、チョリソや生ハムの直売所を見つけた。
立ち寄りたい気持ちが高まったが、今から私たちが行く場所こそが生ハムやその他肉加工食品の聖地。予定では、お昼ご飯をカセレスで食べることになっている。今ここで生ハムを食べてしまったら、聖地に着いた時に感動が薄れてしまわないだろうか。
ここは我慢だ。
見なかったふりをして、お店の前を通り過ぎた。
1時間後に立ち寄ったガソリンスタンドでは、併設店内でサンドイッチやトルティージャを見かけた。
もうお昼だ(スペインのお昼は午後2時ごろから)。ここにあるパンとチーズとトルティージャでボカディージョができるじゃないか。そう思って手に取った。
レジに向かおうとする私の前で、夫が「お昼はカセレス、お昼はカセレス」と呪文のように何度も唱えている。
無言でしばらく見つめあい、どちらからともなく「よし」とうなずいたところでボカディージョの材料になるところだったチーズとトルティージャを棚に戻した。
即席ボカディージョの誘惑にぎりぎりのところで勝った私たちは、コーヒーだけを購入し車を先へと進めた。
空腹のまま、「お昼はカセレス」を合言葉に進む。
しかし、なんせ出発したのが遅い。その上あちこちで休憩していたおかげで、カセレスに着くころには午後4時をまわっていた。スペインのお昼の時間の午後2時を大幅に過ぎている。
「こ、これは失敗でしょうか」
夫が悲壮感漂う声を出す。
空は薄暗い。
ランチはもう終わっているだろうか。
駐車場を求めて町の中をぐるぐるとまわり続ける間、アンダルシアとはまるで異なる景色に私は目を奪われていた。
とにかくお腹が空いていたので、持参したチョコレートクッキーを数枚食べておくことにした。
坂を下り、最初に目に入ったのはセマナサンタのような像だった。
レストランでは皆さんもうお茶の時間になりそうだ。
認めたくないが、どうやら私たちはランチを逃してしまったようだ。
空腹のまま、世界遺産に登録されている旧市街へと足を向ける。
中世の世界に迷い込んだような、と案内に書かれていたが、まさにそのようだった。
薄暗い空は、いい意味で中世効果を生んでいるような気がする、と中世を全く理解していない私が勝手に中世を想う。
石畳をゆく。
坂も多い。
スニーカーを履いてきてよかった。
旧市街の道にはごみひとつ落ちていない。これが世界遺産パワーなのだろうか。きれいに整備された旧市街は、ともすると少々非現実的な印象さえ受けたが、これはつまり、道が整備されていないどころかごみだらけのアンダルシア田舎から来た田舎者のやっかみということでいいだろうかと夫に同意を求めた。
寒いせいか、外を歩いているとトイレに行きたくなってきた。
しかし、世界遺産の中には探せども探せどもトイレがない。
どこかでバルにでも入ろうかと探していると、突如として目の前にパラドールが現れた。
パラドールとは、城や宮殿などの歴史的な建造物を改修し、宿泊施設として利用できるようにしたスペイン国営のホテルだ。
もしかしたら、ここでトイレを借りられるかもしれない!
受付で、宿泊客ではないのですがと言うと、どうぞどうぞとお手洗いまで案内してくれた。
優雅な音楽が流れる廊下を歩く。
パラドールは、お手洗いもぴかぴかだ。
今度は泊まりに来たいなあ。
そんなことを思いながら、つかの間の贅沢な休憩をとらせてもらったパラドールを後にする。
旧市街の散歩を楽しんだ後、レストランやお土産屋さんがある通りに戻った。
人通りが一気に増えた。
お昼ご飯を食べ損ねた私たちは、地元の特産品を求めてぶらぶらすることにした。
歩いていると、バルでビールを飲んでいた数人のおじさんたちが、夫と私を交互に見ながら何か言い始めた。アジア人が珍しいのだろうか。にやにやして見てくる人もいる。耳心地のあまりよくない言葉も聞いた。スペインではこういうことがときどきある。
一人のおじさんが、私の方に近づいてきた。
気付かなかったことにするか、何でしょうかと聞くか。空腹で気持ちがちょっととんがっていた私は後者を選び、「ちょっと行ってくる」と夫に伝えようと振り返った。そんな人たちに全く気付く様子もなく、チーズ、チーズと言いながらお店を探している夫が目に入った。
そうだ。今は楽しい旅行中だった。
わざわざ自分からけんかを買いにいくこともない。
おじさんたちのところに行くのはやめにした。
その後の数分間は内省の時間となった。
アンダルシアの青空が恋しいなあ。
空腹とちょっとしょんぼりした気持ちのせいか、足取りが重い。地元の特産品が置いてあるお店を見つけたのは、そんなときだった。
夫がかねてから食べてみたいと言っていたチーズ「トルタ・デル・カサール」がお店の外からも見える。
見た目は普通の固形のチーズだけど、上の面を蓋のように切り取って外すと、中はとろとろのクリーム状になっている。このとろとろの部分をパンなどにぬって食べるそうだ。
ようやく見つかった。
満足そうな夫の表情を見て、これは即決だろうと私は思った。
しかし、当人はこのチーズの前をうろうろしているだけで、いっこうに購入する気配がない。
何をしているのかと聞いた。
「11ユーロです。私はイベリコ豚も買いたいし、ほかの特産品も買ってみたいんです。今ここでこのチーズを買うためには、私のお小遣いと相談しなければなりません」
今回の旅行に使うお小遣いの額を100ユーロまでと決めていた夫は、その中でうまくやりくりしたいらしい。
「もしかすると、スーパーに行ったらもっと安く買えるんではないでしょうか。スーパーにあるでしょうか?」
ただでさえ決められない人がこうなってくるとさらに面倒だ。放っておいて店内をぶらぶらすることにした。
レジの前に3人の女性がいた。
旅行者だろうか。
商品を次々と手にとっては、レジまで持って行っている。しかし、会計をする様子はなく、お店の人と話しているだけだ。1人がチーズを取りに行き、レジに持って行く。ああ、でもこのチーズじゃないんだった私がほしいのは、と言って棚に戻しに行く。ほかの2人は、チョリソを探している。毎回3人のうち誰かが商品を手にしてはレジに行って、お店の人とその商品に対して意見交換し、また商品を棚に戻して別の商品をレジに持って行くというやり方が続いている。
お店の人の困った顔が見える。
店員さんに同情しながら、夫がいるのと反対側のチーズ売り場に向かった。すると、3人のうちの1人のセニョーラがこちらへ来た。私が手に取ったチーズを彼女もじっと見ている。視線に気づいた私は、「あ、これおいしいでしょうか」と何気なく聞いてみた。
機関銃のような早口で返事がきた。
「このチーズはあかん、こっちがもっとおいしい、これはおいしいけどもっと高い、あんたこれ買うならこっちのほうがいい、何も悪いもの入ってないから!まあ、最終的には好みやけど、私は断然こっちを勧める!!」
あっけにとられている私を前に、セニョーラはふふんと笑ってレジに向かった。
そんなにおいしいのかと思いながら、夫に今起きたことを報告しにいく。当人はまだトルタ・デル・カサールチーズの前にいる。
いいか、と言って私は始めた。
まだ初日であること、まだお昼ご飯を食べていないこと、悩むのはわかるが明日行く町で売っているかわからないこと、もう夕方であること、どこかでご飯を食べなければいけないこと、そろそろホテルに向かった方がいいこと、なんせ一日運転しているあなたが疲れているだろうということ。
「そういえば、確かにもう遅いです!」と納得した夫は、ここでまさかのチーズを買わない決断をし、その隣にあったチーズとは全然関係ないサルチチョン(サラミ)を手にしてレジに向かった。
レジの前には、先ほどの3人のご婦人方がおられた。
チーズを勧めてくださったセニョーラが私を見る。
あら、あなたあのチーズ持ってないじゃない、といわんばかりの表情だ。彼女の視線は、苦笑いの私を通り過ぎ、夫の持っていたサルチチョンに向かった。しばらくして、2人はサルチチョンについて意見を交わし始めた。
その声を聞いたほかの2人のセニョーラたちが夫と私に気付いた。
夫をスペイン人だと思っていた彼女たちが言う。
「まあ、あなたスペイン人じゃなかったのね。アクセントでわかったわ。でも、顔がヨーロッパだからさ、ぱっと見だと外国人とはわからないわね。スペイン語も上手だし。ただ、あなたのパートナーは、見ただけで海外の人とわかるわ。スペインは言葉がわからないとなかなか大変よね。かわいそうに、私たちが何を言っているかわからないんでしょう。あなた後で通訳してあげてね」
私のことか。
ああ、またさっきのおじさんのように見た目で判断されるのだろうか。
そう思ったら、今度は私が弾丸のように話していた。
「お気遣いありがとうございます!おっしゃる通り私はスペイン人ではありませんが、かわいそうではありません。この町ではありませんが、スペインに住んでおり、皆さんのおっしゃっていることはだいたいわかりました。優しいお言葉をありがとうございます。しかし、ご心配なきようにお願いいたします!」
数秒間の沈黙の後、3人のセニョーラたちが私の肩を叩いて大笑いしはじめた。
「何、あなたそのアンダルシア弁!ちょっともしかして〇〇町から来た?いやだ、外国人だと思ってたら、私たちと同郷じゃないのよ!」
「あなたが逆にご主人に説明してあげる番だわ!まあ、私たちったらごめんなさいね、あなたがそんなアンダルーサとはまさか思いもしなかったから。嬉しいわあ、こんなところでアンダルシア人に会えるなんて」
そこからは、一気に距離が縮まった。アクセントから察するにアンダルシア人だとは思っていたが、何と近くの町の人たちだった。3人で旅行に来たのだという。
彼女たちの手は、その後も私を抱きかかえるようにして離さない。よくやった、よくやったと言わんばかりに肩を叩き、まさかあなたがアンダルシア弁をねえと大声で笑う。
個人的な見解かもしれないが、アンダルシア人は、アンダルシアの外で会うとこのように大きな喜びを全身で表してくれることが少なくない。
エストレマドゥーラにいながら、お店の中はアンダルシアの空気でいっぱいになった。夫が嬉しそうに私たちを見ている。
◆
夫はスペイン語がとても上手だ。新聞やニュースも全く問題ない。唯一苦労しているのは、ときどき英語まじりになるアクセントぐらいだ。
一方、私のスペイン語は、気合いと熱意だけで切り抜けているレベルだ。ニュースを聞いても内容によっては完全にわかるまでいかない。自慢できることといえば、向かうところ敵なしと地元の人に言われたアンダルシア訛りぐらいだ。
スペイン人は、文法が少々おかしくても理解してくれる。まだまだそこに甘えている私は、技術的な知識が必要になる部分は夫にカバーしてもらい、ときに「にゃー!」と叫びながらなんとかスペインで暮らしている。
セニョーラたちの勧めに従い、エストレマドゥーラに来たら買うべき一品のひとつ、Pimentón de la Veraを購入することにした。Pimentón de la Veraとは、「スモーキーな」パプリカのパウダーとでも言ったらいいだろうか。この「スモーキー」がポイントだ。彼女たちは少なく見積もっても1人10袋をレジの台に置いた。
20分ぐらいかかって、3人が会計を済ませた。
私たちの番になった頃には、お店の人は既にくたくたの様子だった。
「もう今日は何もできないわ!アンダルシア人のパワーといったらもう…。一体いつ帰るのかしらと思っていたんだけど」
「でも彼女たちのおかげで、お店にたくさんお客さんがやってきましたね!よかったです。確かに竜巻のようでしたが、彼女たちはお店の売上にも大変貢献したようですね!」
夫がご婦人たちをかばう。
実際、彼女たちの大声を聞いて、何人かの観光客たちがお店に入ってきた。アンダルシア人という人たちは、無意識のうちに呼び込みもしているようだ。
お店を出るころには、さっきのおじさんたちの件はすっかり忘れてしまっていた。エストレマドゥーラで、アンダルシアマジックがかかった瞬間だった。
とにかく寒い。
この空模様だ。
今となってはもうお昼ご飯なのか夜ご飯なのかわからないが、何か食べてホテルに向かったほうがいい。
「その前に、スーパーに行ってもいいですか」
夫が言う。
この人はまだチーズを諦めてはいない。
徒歩圏内のスーパーには、件のチーズは売っていなかった。
雨が降ってきたので、アンダルシアで毎週のようにお世話になっているスーパー、メルカドーナに行くことになった。「お昼はカセレス」が、「お昼はメルカドーナ」になった瞬間だった。勝手知ったるメルカドーナに入ると、サラダ、パン、フムス、ヨーグルト、グアカモーレを購入した。
結局カセレスには2時間ぐらいしかいなかったようだ。
旧市街の眺めは圧巻だったが、今このnoteを書いていてこの日一番印象に残っているのはアンダルシアのご婦人方とパラドールということに改めて気が付いた。なんということだろう。今度は朝のうちに到着するようにしたい。
予約したホテルは、村外れにあった。
カセレスと明日行く町の間でどこかいいところはないかと探していたときに夫が見つけた。このあたりのホテルはここだけらしい。
実際、こんなところにホテルがあるのだろうか、と思うようなところにそのホテルはあった。
馬に乗った人が前方に見える。
駐車場がどこかわからず聞きにいくと、外の道に停めるようにと言う。誰も盗らないから、だそうだ。
そういうものかと、適当なところに車を停めた。
数秒後、今度は別のお2人が通り過ぎて行った。
モダンな雰囲気のホテルの前に広がる牧歌的な風景に昭和を感じる。わくわくしてきた。
結果的に、このホテルが素晴らしかった。予約時、レビューがとにかくよかったのを覚えている。一泊50-60ユーロで、内装も綺麗で新しい。
部屋もとっても広くて、その気になれば10人ぐらいが一斉に踊り出せそうだ。空調も完璧で快適だった。
ホテルにチェックインする前に、地元のスーパーに行きたいと夫が言う。この人はチーズを諦めていない。
まずはチェックインして荷物を置いて一息つこうと提案した。この人は子どものようなところがあり、わー!と突っ走っては後で熱を出すからだ。
荷物を置き、お茶を飲む。
荷物と言えば、今回は20kg入るバックパックと、私の小さめのリュックを持参した。基本的には着替えと飲み物とお菓子が入っているだけだから、なぜそんなに大荷物になるのかわからない。
チーズを諦めていない夫は、地元スーパーの場所をひたすら調べている。この日は土曜日だった。翌日は日曜日なので、スーパーも閉まってしまう。何としても今日、チーズを買いたいという。
だったらなぜあの11ユーロのチーズを買わなかったのだと言いたかったが、言ったところで話が通じる相手ではない。
それにしても、午後4時にビスケットを数枚食べたきりだ。既に午後8時をまわっている。
空腹のままではあったが、約束通り再び外に出る。車に乗ると、夫はスーパーの住所をナビに入力し始めた。とてもローカルなお店のようだ。ナビにも出てこない。
おかしいですねえ、と言いながら、夫はその住所の付近まで行ってみることにした。
5分後、目の前にはあぜ道が広がっていた。
大丈夫ですよ、と夫が言う。
しばらくして、あぜ道は泥道に変わった。
「こんなはずではないんですけど…」
そう言いながらも、どうしてもチーズが欲しい夫は諦めない。
泥道をしばらく進むと、行き止まりになった。
外はもう真っ暗だ。このあたりには街灯もない。
さすがに危ないと思ったのか、今回ばかりは夫も諦めた。
ごめんなさいの言葉を合図にホテルに戻り、メルカドーナで買ったご飯を食べることにした。
「お昼はカセレス」どころか、「お昼も夜もメルカドーナ」になった。ここにきて、私たちは地元の特産物を何も口にしていないことに気付く。
明日に期待するしかない。
しかし、このとき私はまだ気付いていなかった。
夫はまだチーズを諦めていなかったのだ。
それがわかったのは、翌朝になってからだった。
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