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正夢

 ひどい夢で目がさめた。端的に言うと、夢の中で、最近入ってきた若い派遣社員を押し倒してしまった。あってはいけない夢だ。いけないという理由は、私はその人のことをうざったく思っていたし、まったく好意など抱いていない。何よりも、彼女は女だ。私も女だ。夢のでの行為は合意だったのか、それを思い出すのも辛かった。

 いつもより30分も長く布団の中に居座っている。とうに始業時間に間に合う最後の電車は行ってしまった後だ。上司になんと言い訳しようか、いや、それどころではない。私は、私はいま、心の整理で忙しいのだ。今起き上がってしまったら、会社に行って彼女の顔を見てしまったら、私はどう反応すれば良いのかわからない。それどころか、今、この夢を見てしまってから以降の人生、私はどうなるのだ。

 諸悪の根源は、先週から職場に派遣されてきた、杉本由里だ。社員の産休育休期間の代理として、経理部に入ってきたのが彼女だ。数日の間に数々の問題を起こし、本日ついに契約解除となる予定だ。

 男ばかりのWEB製作会社で、杉本由里の存在はそれだけで大事件だった。経理部長に「女性同士だし、何かと見てやってと」意味不明な紹介をされ、挨拶をした。確かに彼女の白い肌、シャンプーの香り漂う長い髪、ブランド物の鞄、細い足首、整った指先、柔らかい声、キッチリと化粧した目元は、職場に華やかさを足した。

 杉本由里の驚くべきスキルは、当日から発揮された。エクセルもワードもろくに使えず、会議に必要な資料のコピー10部のところ100部とった。加えて、そのコピーは少し斜めで非常に読み難い。90部の不要な資料をシュレッダーにかけるために、何度も差込口を詰まらせて、ダストボックスをひっくり返し、結局何もなかった状態になるまで2時間以上かかった。経理部長の皮肉も全く伝わっていないようだった。見積もり付きの社内文書を取引先に転送したり、来客の名前を間違えるのも当たり前、送り状もまともに書けないようだった。

 聞けば、美大で日本画を学び、なんだか知らないがそれは有名な展覧会で入賞した経験を持っているそうである。

 最初は社内に変わった若い子が入ってきたと皆と笑い合っていたが、私はいちいちそれに反応するのも疲れてきた。私のように、男社会で生きていくために、男の価値観を内面化する生き方など、全く考えなかったんだろう。経理と関わるのなんて、月一回、請求書の処理の方法に相談するだけで、その相談相手は絶対に彼女ではない。私は彼女と関わらないことを決めたのだ。これが杉本由里が入社して4日目、昨日昼のこと。

 風邪をひいたようだと、午前中休みを取り、出社したが、まったく仕事が手につかない。私の席からは見えない杉本由里の存在が、私を苦しめていた。幸運にして午後の会議が長引き、杉本由里と顔を会わせることはなかった。

 夜、お酒でも少し飲めば夜もよく眠れるだろうと、近くの居酒屋に寄ると、3人の男性社員と彼女がすでにできあがっているとことだった。しまった、と思った瞬間にはもう遅い。ばちっと音がするように杉本由里と目が合い、私は動けなくなってしまった。ぱちぱちっと彼女のまつげが上下する。耳鳴りのような静寂のあと、あやさん、とよく通る高い声が私の名前を呼ぶ。よく聞こえたと思ったのは私だけで、実際には店内は騒々しくてそんな声聞こえるはずがないのだ。ないけれど、確かに彼女が発した振動は、私を震え上がらせた。

 結局5人でテーブルを囲んだ。私の右隣には杉本由里。次々にビールがやってきて、つぎつぎに空のジョッキが回収されてゆく。本日の杉本由里の失敗話を聞きながら、私は次の3点を考えていた。一番、杉本由里は解約されていないのかどうか。二番、彼女には恋人がいるのかどうか。3番、私の反応は全て自然にみえるかどうか。待て、おかしい。二番はおかしい。関係ない話だ。2番目は今ビール何杯目か、に変更しよう。そういえば全く数えていなかった。「あやさん、今日はよく飲みますね」と男性の声が聞こえた。何か考えたのか考えていないのかわからない程度間を置いて、私は帰ると宣言した。「駅までご一緒します」という高い声は無視した。「金曜日なのに」という男性の声はよく私の頭に響いた。そうだ、金曜日だ。明日は仕事がないのだ。

 お金を置いて店を出た私は、待った。杉本由里が私を追って店を出てくるのを待った。何かを探しているかのように、ポケットを叩き、鞄の中を調べるふりをして、私は杉本由里を待ったのだ。「お待たせしました」と笑う彼女を見ながら、私は無表情でさっと、翻って駅と逆方向に歩き出した。戸惑う彼女に私は、ビール以外を飲もうと言った。

 2件目は、外から見たことしかないガラス張りのワインバーに行った。私は赤ワインを、彼女は白ワインを飲んだ。背の高い椅子から滑り落ちそうになりながら、うまく箸で掴めないエンドウ豆をいじり、何かを話した。ほとんど意味のない話だ。「すてきですね」と彼女が言った。本当に私に言ったのかはわからない。でもこのテーブルには彼女と私しかいないから、多分私に言ったのだ。その後、彼女は図々しくも私の家についてきた。いや、私が誘ったのかもしれない。四国の珍しいお酒が家にあるよとかいって彼女の興味を引いたのしれない。それを「誘った」というのであれば、そうだ。誘ったんだ、彼女を、私の家に。でも付いてきた彼女も彼女だ。私は何度も彼女に断る隙を与えたし、その度に彼女は付いてきたのだ。

 家に帰って、結局お酒は飲まなかった。ドアを閉めたとたん、部屋中に彼女の匂いが立ち込めて、まるで自分の家ではないような気がした。いい匂いだねとか、肌白いねとか、女の子っぽくて可愛いね、胸大きいねとか言ったかもしれない。そしたら、彼女はこう言った。「私、もともと男で生まれたんです。でも、女性も好きです。」この時私はなんと言っただろうか。え、いや、むしろ大歓迎ですなんとかいう妙な返事をしてしまったのではなかったのか。触らせてとか言ったかもしれない。仕方ない、後悔はない。そのあとは、目に涙を浮かべながら彼女が抱きついてきて、いや、私が強く抱きしめたのかもしれない、そしてそして、こんな陳腐な言葉しか見つからないのが本当に悔しいが、溶け合うようなセックスをした。彼女の素肌が私の身体に触れるたびに、じわりとその境界を超えて、熱と興奮が伝わってくる。多分彼女にも私のものが伝わったのだろう。これをセックスと呼ぶなら、今まで私がやってきたものはなんだったのか。

 隣の人物が動く音がして、私はハッと左を向く。顎まで布団で隠しながら、化粧がないおかげで昼間よりも一回り小さい彼女の目が、じっと私を捉えていた。「おはよう」と彼女は良い、私は、うん、と声を絞り出した。少しの間や声色や喉の震えが、彼女に不安を与えないように。「あっこのパーカー借りて良い?」と彼女は私に言ってベッドから出た。布団が流れるように、彼女の素肌をすべり落ち、白く透明な四肢が露わになった。私は彼女の皮膚の、筋肉の、骨の、脂肪の、シリコンの動きを追うので、精一杯だった。彼女はパーカーで身体を隠しながら「良い?」ともう一度訪ねた。いいけど、と私は答えた。そんな答えで本当によかったのかわからない。1度も洗濯したことのない、部屋着のグレーの部屋着によって彼女の身体が隠れるのがすこし残念だった。かといって、裸のままいて、というのは少しおかしい要求だとわかっていた。あれ? 頼めばずっと裸でいてくれるんじゃないかな。もうそんなこと思ってる時点で私は十分におかしいのだから、言ってしまっても良いんじゃないか。そんなことを考えているうちに彼女の肌は60%以上が隠れてしまった。「えへへ、あやさんの服、ちょっと大きいね」と歯を見せながら彼女は笑うのだった。ああ、どうしよう。こんなこと、こんな幸せなことは初めてだ。

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