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国立慕情(1)

 新型コロナウィルスの感染拡大が予断を許さなくなったのと、身体的な衰えが進む心配から、二度と行かれなくなるかとの恐怖にかられて(?)、3月の桜の時に、ほぼ1年ぶりに国立へ行きました。

 国立駅舎の移動工事が終わり、国立の象徴であったとんがり屋根の旧JR駅舎が記念建物として残され、市民の憩いの場になっていました。↑の写真は、駅前の多摩信金のあたりから見た国立駅前です。

 国立の地を初めて踏んだのは、桐朋中学へ入学したときの昭和25年(1950)年4月ですから、国立とのお付き合いは70年以上になります。本人にとっては思い出の地でも、国立を知らない方には、全く関係ない話ですが、当時の様子を少しでも知っていただければと思っています。

 中学入学時、大学通りはただ広いだけのでこぼこ道で、歩道は砂利道でした。当時はバスなどありませんでしたから、雨の日など歩くのが大変でした。毎年全校生徒を集めた有名人の講演会がありましたが、当時テレビで活躍していた渡辺紳一郎さんが土砂降りの雨の中来られた時に、人生で最大の失敗はと問われ、今日来るときに、穴に膝までつかり、ずぶぬれになったことと、応じていたのを現在でも覚えています。

国立には、桐朋のほか都立国立高校、都立五商、国立音大付属高校などがあり、条例で文教地区に指定されていました。したがって飲み屋、パチンコ店などはなく、一般の商店も数えるほどでいたって閑散とした寂しい街でした。商店も喫茶店・エピキュール、増田書店、やぶ蕎麦、などがありましたが、中学時代、バスケットの練習帰りに寄った、「やぶ」のもり・かけが17円の時代でした。


桐朋は木造校舎でしたが、校宅があり、住宅難の時代なので、校宅目当てに若い優秀な先生が集まったようです。当時は公立が優勢で、私立でも国分寺にあった明星中学の方が上でしたが、若い熱心な先生が集まった桐朋が伸び、その後都内でも有数の進学校になった。木造校舎は古かったですが、校庭は広く、全校で草取りをしたあと、幾つもの山を作って燃やし、大きな火の手と煙が上った風景、今でも目に焼き付いている。南武線方面は畑が続き、谷保天神まで、大きな建物が全くなかった。


一橋大学も未整備で、奥にある陸上競技場の周囲を囲む針金鉄線がいつも穴が開いていたので下校時の近道となり、よく利用した。時計台の前の池も,常に濁り、釣りをしたという猛者もいた。大学の体育館も、ダブルデイヴィジョンという寸詰まりの変則体育館で、大学卒業後も長く存在していた。
桐朋の体育館は一面だが正規の広さがあり、中学時代、練習試合付きで一橋大にコートを貸すことが時々あった。大学合格時、新人勧誘で、坊主頭の中学生だった小生を思い出した先輩がいて、バスケット部に来いと誘われ、入部したが、それ以来、現在までバスケットとの縁が続いている。


 バスケットは、中学に入ったときに、同じ小学校から来たA君と、背が伸びるようにと願って入部したが、ともに上手くいかなかった。コーチの先生は、戦後の文理科大学のキャプテンを務め、女子バスケットの名門、浦和一女から転校してきた本格的な方で、身をもって基礎を教えてくれた良きコーチでしたが、2年ほどして男子校に辟易してか国分寺の東京経済大学のコーチに転身された。中学時代は先輩がいたが、高校時代は受験勉強を始める高校2年半ばまで、中・高全体の面倒を見ていた。体育館では器械体操部が一緒で、ヘルシンキオリンピックに出場した金子明友先生が練習するのをよく見ていた。先生は後に筑波大の学長になられた。バスケット部はコーチの先生不在で、“不良のたまり”と酷評されるときもあったと聞いた。

大学のバスケットも、今思うとひどかった。メンバーが少なく、未経験者がほとんどで、練習後の麻雀のメンバーを集めるために、練習に来るという先輩が存在したほど。春合宿は新入生がいないので、プレーヤーより、けがで休む人の方が多く、まとまった練習がほとんどできなかった。合宿所は、中学生の時に潜り込んでいた陸上競技場のスタンドにあった集会所、寝具は無いので、各自、家から電車で運んだ。食事は学食で、飲みに出ることなど店が無いので全くなかった。練習前の準備体操がラジオ体操のみという時代、いつまで続いたのか定かでありませんが、弱い時代が長かったのでそれなりに続いたようです。

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