国立慕情(3)

 中学に入学した昭和25年(1950年)4月のころは、朝鮮戦争勃発前で、日本中、みんな貧しく、飢えていた。給食がないので弁当持参で通学、中身は「のり弁」「日の丸弁当」が普通だった。 朝鮮戦争が始まり、特需で景気が少し良くなった中学3年の頃になると食糧事情が少し良くなり、午前中の授業の合間に弁当を食べ、昼は、校内、販売のジューキパン,下校時には、国立駅近くの「藪そば」でかけソバ、家に帰って夕食、と一日中食べていたような気がする。家庭にテレビがまだ無い時代で、街頭テレビで力道山とシャープ兄弟のプロレス戦に興奮、ラジオでもっぱらプロ野球、高校野球、大相撲を聞いていた。新聞は、一般紙の外に報知新聞をとり(スポーツ好きだった)、塾も家庭教師も無縁で、勉強をしていた記憶が無い。

 桐朋学園は、体力増進に熱心で、春先の全校(中・高)生徒参加の村山貯水池一周マラソン、一年通じて行われた全校生徒による「縄跳び検定」など、全国的にみても珍しい学校だった。部活動も、器械体操部が都内で常に上位、全国大会に毎年選手をおくりこんでいた。ヘルシンキ五輪に選手として参加した金子明友先生が、体育の教師をしながら、放課後部員といつも一緒に練習していた。
 一方、バスケット部は、中学、高校とも指導者不在で生徒だけの練習となり弱かった。今年、日経新聞の「私の履歴書」に歌人の佐々木幸綱が登場、成蹊中学時代のバスケット姿の写真が載っていたのを見て、成蹊中に佐々木と言う好選手がいたのを思い出した。スピードがあり、スマートな動きの速い好選手だった。 

 
 目ぼしい戦績は、高2の時にコーチをしていた中学チームが、春先に行われた東京都の大会で3位に入ったぐらいしか記憶にない。当時の、森田、山崎、橋詰、田村、松沢など3年生のメンバーの姿、顔を覚えているが、中心選手だった山崎高安君が、中央大でバスケットを続け、卒業後間もなく、東名で事故死したのが大いに惜しまれた。同じ吉祥寺商店街の出身で次兄が同級生、面倒見の良い明るく素直な性格の持ち主で、彼が存命していれば、桐朋学園のバスケットももっと違った道を辿ったにちがいない。
 桐朋学園には、木造の大講堂(千人収容)があった。渡辺紳一郎の講演会、諏訪根自子など全校生対象に一流著名人を招いての情操教育が、毎年行われた。開演前、ざわつく生徒たちに対して一瞥を加え、ぴたっと静かにさせて演奏を始めバイオリン奏者、一流は違うと思い知らされたのを思い出す。学校の雰囲気は、制服はなく、規則、規律などにうるさくない自由な校風の学校だった。いじめの噂などきいたこともなく、中央線の荻窪から自転車で通学するものもいたが、問題にならなかった。


 学校のレベルはまだ低く、中学一年入学時250名いた生徒のうち、高校進学時に上位50名ほどが有名校、進学校に進んで抜けた。そのまま桐朋高校に進んだ連中は概して、おっとり、のんびりしていた。補充で50名、高校一年時に入学してきたが、殆ど気にならず、卒業するときには、誰が高校からの入学生か全くわからなくなっていた。
 大学出たばかりの新任の男性英語教師が、初めての授業で立ち往生、教科書をもったまま黒板を向いて、最後まで殆ど無言で立ったままの時でも、生徒も無言でじっとしていて騒がず、自習していた、というようなこともあった。教師陣は若くて意欲的、高校1年時の期末試験は、先生は退室して無監督、高校2年生時には、学力テストの成績順に5クラスに分け、3年までクラス変えしなかった。この試み、大学進学の面では成功したものの、卒業後、生徒間にわだかまりが残り、個人的には<問題あり>の感じがした。

 化学が専門で、高2の時の担任だった田村先生、神戸市の給湯器メーカー(株)ノーリツに出向した時に、中央研究所の顧問をしておられた。会社創業時の功労者として社内では有名だったが、高校時代、個人的な接触がなかったので結局、挨拶を一度しただけで終わってしまった。成績順のクラス分けは、担任と生徒の関係を希薄にしたように感じる。
 
 昭和31年に卒業し、浪人生活を一年した。大学受験は一橋大のみで、現役入学は無理と諦めていた。クラスでは一橋の現役合格は2人のみだった。予備校は高田馬場にあった一橋学院。院長が一橋出身で、一橋大学進学希望者専用の予備校のようだった。ここでは、模擬テストの結果が、毎回大相撲の番付表のスタイルで発表され、横綱、大関などは常連が多かった。
 桐朋中学時代クラスが一緒で、高校は都立豊多摩へ進学した増井君は上位常連だった。増井君とは縁がつづき、大学へ入学するとクラスが一緒、さらに彼が入社したアサヒビール、本社が京橋の角にあった第一生命ビルにあったが、建て替えのために日比谷の第一生命本社ビルに一時移り変わってきた。第一生命に入社して本社にいたので、そこでもまた出会うという不思議な縁となった。同じく上位の常連だった秋田高校出身の柳原君、大学のバスケット部では1年後輩になっていたが、不思議なことにお互いにあまり気にはならなかった。

 一年目も、二年目も大学受験は、一橋のみ、他の大学は全く受験しなかった。中・高と6年間通った国立、地元の感覚で身内のような親近感があり、当たり前のように受験した。入学すると、一橋学院出身者が大勢いたが、桐朋の同期・同クラスからは、8名合格、現役、二浪を合わせると、10名を超え、全国でもトップクラスの合格者数となった、東大、東工大への入学者も同様に増えたので、進学校として注目されるようになった。

 当時の桐朋学園は、京王線仙川駅にある桐朋学園女子高等学校に併設された音楽科(小生等が中3の頃創設)が全国的に有名で、高2の時の修学旅行で、京都で音楽の桐朋と間違われ、「歌は・・」「楽器は・・」と他学校の生徒に質問されて、仲間数人で苦笑したのを思い出す。2016年11月に、ALL桐朋同窓会があったが、桐朋学園大学ができて音楽、演劇部門が膨らみ、国立の普通校・桐朋の存在感がすっかり小さくなっていた。

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