くさい人は社会にいちゃダメですか? ~体臭と差別の関係性②

多様性の尊重により差別を許容しない社会へ

体臭で悩む人に向け、医療的な側面以外でサポートできるような何かを伝えたい。そんな動機からはじめたnoteですが、自分で想像していた以上の方に読んでいただいているようです。ありがとうございます。届くべき人に届いていますように、と願うばかりです。

さて。今回も差別と体臭の関係性について考えてみます。

前回の記事でレイシズム(人種差別)に触れましたが、近年はこのほかにもさまざまな差別が社会的な問題として関心を集めています。

たとえば、ルッキズム(外見至上主義・外見差別)です。10~15年前であれば、バラエティ番組に出演する芸人が、蔑称である「ハゲ」「デブ」「チビ」「ブス」といった言葉を当然のごとく使っていました。ところが、最近は身体的特性を嘲笑する芸人は、ゼロとはいいませんが、大幅に減っています。多様性の尊重が社会に広まった結果、容姿をネタにする手法がご法度となったのです。

生まれる国や地域、肌や目の色を自らの意思で選べないのと同様に、容姿もまた選択が不可能です。芸人本人がネタにしているケースであればまだしも、生得的属性である他者の容姿を嘲笑うネタは不適切といえるでしょう。

このほかにも、セクシズム(性差別)やエイジズム(年齢差別)など、これまでなし崩しで温存されていた差別が問題として指摘されるようになり、社会的に許容されがたくなりつつあります。差別問題について社会的に理解が深まれば理想的ですが、たとえ表層的でも差別的言動が減少しているのは明るい兆しであるように思います。

差別を考えるにあたり、私が心に留めているのは「人の心は誰もコントロールできない」という当然の事実です。他者の心は不可侵であり、差別心を矯正するような発想は無理があると考えます。

もし目の前で差別主義者が改心するような瞬間を見られたら、おそらく私は心を動かされると思いますが、「心を変える」のはけっしてゴールではないように思います。誰かの心は変えられなくても、表層的に差別がなくなれば、傷つく人の数は格段に減ります。まずはそこを目指すべきです。

差別に対する深い理解の促進は、今後、教育が大きな役割を担っていくのではないでしょうか。私がこどもだった80年代、幼児・児童が使うクレヨンに「はだいろ」という色がありましたが、現在は「うすだいだいいろ」に変わっています。時代は確実に変化しているのです。

体臭を嘲笑する行為が差別になる時代は訪れる?

それでは、現代における体臭で悩む人の位置づけについて考えてみます。

以前の記事でも触れてきましたが、一般的に、体臭の強い人は不潔であるというのが社会的な共通認識です。体を清潔に保っている人でにおいが強いとなれば、腋臭症(ワキガ)や胃腸病を疑われるケースが大半でしょう。

ただし、世の中には「くさい」と人から指摘されるにも関わらず、原因を突き止められない人が少なからず存在します。そういったマイノリティに対して思いを馳せる人は、まずいないでしょう。

私自身、これだけ医学が発達した世の中において、体臭のメカニズムが解明されないケースはあるのだろうか、と疑問に思う機会が多々あります。しかし、自身の経験則に照らし合わせてみると、ある考えが頭に浮かびます。

たとえば、体調が悪いときにクリニックで診察を受けたとします。症状によっては、明解に診断が下るケースもあるでしょう。診断がつくと、患者としては非常に安心します。なぜなら、すでに世にある疾患であり、治療法もある程度は確立されていると思えるからです。

一方、訴えている症状に診断がつかず、「少し様子を見ましょう」といわれるケースも少なからずあります。あきらかに体調が悪いにも関わらず診断がつかないと、不安が大きくなっていきます。

診断がつかない症状はここ十数年で「未診断疾患」と呼ばれるようになり、社会的な問題となっています。この未診断疾患に体臭が含まれていてもおかしくありません。今後の医学のさらなる進歩が望まれます。

話が横道に逸れたため、本題に戻します。

今後、体臭を嘲笑する行為が差別として認められる日はくるのでしょうか。私は、遠くない未来にそのような日がくると信じています。マイノリティが声を上げ続けた結果、レイシズムやルッキズムが社会的に許されなくなったように、体臭に悩む人を嘲笑う行為が問題視される日が訪れるでしょう。同時に、医療面におけるサポートがさらに充実すれば、体臭に悩む人――本人のみならず周囲で迷惑と感じている人も含めて――の数は大幅に減るはずです。

私を含めた体臭に悩む人々が「いない者」とされぬよう、声を上げていきたいと思います。

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