コロナ時代を生きぬくための聖書のことば(9)~黙っている言葉の向こうに
言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。
マタイによる福音書12章36節
最後の審判の日には、私たちが生きていたときに話したすべての「つまらない言葉」が裁きの対象となるというのですから、一見、イエスさまの言葉はなんと厳しく響くことでしょうか。
では、実際、その「つまらない言葉」とはどのような言葉を指すのでしょうか?
原語(ギリシャ語)algonをそのまま直訳すると「働きのない言葉」(役に立たない言葉)ということになります。
ちなみに他の訳を見てみると、文語訳は「虚しい言葉」、口語訳は「無益な言葉」、新改訳は「無駄な言葉」となっています。
いずれも他者への愛に欠けているという点では共通していると言えましょう。
私たちは日頃、なんと多くのうわさ話や他者への批判、身の回りに対する欲求不満や愚痴といった形の「つまらない言葉」で、時間を費やしていることでしょうか。
使徒パウロは、そのような生活態度に対して「俗悪な無駄話を避けなさい」と警告しています(テモテへの手紙二2章16節)。
だからと言って、このような表現を、一面的に倫理的、道徳的な教えとして捉えてしまったら、それはあまりにも性急でしょう。
私はある日、絵本作家であり漫画家の、おーなり由子(ゆうこ)さんの手になる『ことばのかたち』という長編詩の絵本を読んでいて、逆にそのことを痛切に教えられたことでした。
もしも
話すことばが 目に見えたら
どんなかたちを しているだろう
という詩から始まっているのですが、具体例をあげながら、こう展開しています。
たとえば――
だれかを傷つける ことばが
針のかたちを しているとしたら
どうだろう
話すたびに とがった針が
口から 発射されて
相手に 突き刺さるのが 見えたとしたら
私は、もしかしたら「つまらない言葉」もそのような形を帯びているのかもしれないなと思いながら、なおその先を追っていきますと、こんな言葉にも出合いました。
「だまっている」という ことばのむこうに
ゆたかな森が ひろがっているかもしれない
これは、それこそ沈黙の果てのいのちの言葉の発見ではないでしょうか。
そして終わりに
たいせつなひとに
花のようなことばを
とどけることが できるように
とどいたことばが こもれびのように
わらいますように
という素敵な言葉で結んでありました。
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