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コロナ時代を生きぬくための聖書のことば(17)~人は目に映ることを見るが、主は心によって見る

主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見えるようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る
                   サムエル記上16章7節

もうだいぶ前のことになりますが、1980年代末のバブル景気全盛期にうら若き女性の主流層が結婚相手の条件として「三高」を求めたという経緯があります。この言葉が一時流行語となりました。「三高」とは高学歴、高収入、高身長のことです。このように伴侶に対する人間の要求は旧約の時代からあまり変わっていないということが言えるでしょう。

しかし、最近は「価値観が合うこと」「金銭感覚が一致していること」「雇用形態が安定していること」の頭文字をとった「3K」が求められていると言いますから、時代はいくらか現実的になってきているのかもしれません。

このような人間の性向は、誰もが幸福になりたいという願望に支配されていることに起因しており、私たちはたえず評価基準をもって対象を判断しているということが言えるでしょう。
それは神さまの目から見れば、私たちは外観を通して、いわば「うわべ」だけを見ているにすぎず、結果的にその本質や内実を見極めてはいないということが言えるのではないでしょうか。
私たちは目に映るもの、形あるものに絶対的な価値基準を置いて人間や対象物を見、物事を判断しているかぎり、ほんとうの評価とはほど遠いと言わなければならないでしょう。
 
しかし、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と書かれてありますように、神さまこそが、じつは私たちの心をありのままに見てくださるお方なのです。
詩編に「心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。/心のまっすぐな人を救う方/神はわたしの盾」(7編10節~11節)という聖句もありますように、主は「心とはらわた」を正しく見て評価してくださるのです。

はらわた(腸)とは文字どおり内蔵のことですが、旧約の所々の個所で使われている独特な言葉遣いで、心よりももっと奥深い意味合いが込められています。
とくにエレミヤ書17章9節~10節には「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる」と記述されているように、神さまの目にはすべてお見通しで、正しく判断・評価して、それぞれに報いをお与えになるのです。

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