天竜楽市|天竜茶専門店
江戸時代から昭和中期まで遠州経済の大動脈となっていた天竜川の水運についてまとめています。
信州伊那谷から管流される榑木の川下げは通常三年分をまとめて冬の渇水期に行なわれていたようです。何万丁もの榑木が一斉に天竜川に流され、川岸に乗り上げたり岩に掛かった榑木を本流へ押し流す「川狩り」という作業に流域の村人が駆り出されました。 奧山・西手(現在の水窪・佐久間・龍山・龍川・熊)地区のうち十六ヶ村に「榑木御綱役」という夫役が課され、日明にて榑木を受止める留綱の作成と設置、榑木が盗難されず無事に流着するよう各所に見張り番を置き監視するよう求められました。榑木一丁
元亀三年(1572)二俣城を武田信玄に奪われた徳川家康が天竜川を渡って浜松城へ退く際に、竹で組んだ筏を作り窮地を救ったとされる北鹿島村大角孫之丞は、天正六年(1578)に材木を筏に組んで馬籠川(当時は天竜川から枝分かれしていた)を下っている時に家康の目に止まり褒美を賜わりました。この頃から天竜川流域に筏による材木の運搬が発達していったようです。 慶長五年(1600)、徳川家康は信州伊那谷を直轄領としました。この地域では杉・檜・椹(さわら)などから製材した榑木を米の代
流れが急で岩場や荒瀬など難所の多い天竜川では、中世まで丸太を組んだ筏船が主流でしたが、慶長十二年(1607)、徳川家康は「京の三長者」に数えられた豪商角倉了以(すみのくら りょうい)に信州から掛塚まで天竜川の舟路開発を命じました。 了以の手代であった角倉屋利右衛門が元和八年(1622)までに概ね工事を完了させ、了以が京都に開削した運河、高瀬川で使われていた高瀬舟(当地では「角倉船」と呼ばれていましたが、御朱印船として海上貿易に使用され数百名の船員が乗った大型の角倉船