天竜材の運搬 榑木と筏

 元亀三年(1572)二俣城を武田信玄に奪われた徳川家康が天竜川を渡って浜松城へ退く際に、竹で組んだ筏を作り窮地を救ったとされる北鹿島村大角孫之丞は、天正六年(1578)に材木を筏に組んで馬籠川(当時は天竜川から枝分かれしていた)を下っている時に家康の目に止まり褒美を賜わりました。この頃から天竜川流域に筏による材木の運搬が発達していったようです。


 慶長五年(1600)、徳川家康は信州伊那谷を直轄領としました。この地域では杉・檜・椹(さわら)などから製材した榑木を米の代わりに年貢として納めるようになり、一本ずつ天竜川に流す管流(くだながし)で川下げしました。


 流された榑木は船明(ふなぎら)・日明(ひあり)に張った留綱で受止め、水揚げして船明山榑山に積まれ、必要に応じて筏組し、船明から掛塚湊へ下り、船積みされて江戸など全国各地へ送られました。


 慶長十三年(1608)には駿府にいた家康が日明まで出向いた記録があり、榑木の流通に強い関心を寄せていたことがわかります。同じ年に京都方広寺大仏殿再建が企図されると、角倉了以は大河原・鹿塩の松を伐り出し天竜川を流して大阪へ回漕しています。


 榑木の輸送は天和(1681-)、貞享(1684-)、元禄(1688-)の頃に最盛期を迎え、年間二百万丁を超えることもありました。


 二俣など周辺八ヶ村には「榑木山番役」が賦課され、昼二名・夜四名の体制で盗難や火災に備え厳重に管理することを求められました。また八ヶ村は「榑木棚積役」として二百丁単位で榑木を集積する役も課されています。


 鹿島分村瀬崎から大嶺村枝郷鮎釣までの天竜川両岸十三ヶ村(船明・大園・日明・伊砂は上記八ヶ村と重複)には「榑木筏役」として、上榑の選別、川岸までの運搬、筏の組み立て、掛塚湊までの乗り下げの役が課されました。


 これらの賦役には賃金や扶持米の支給はあったものの充分ではなく、村々の負担は大きかったようです。一方、船明の豪商山形屋のように材木業、筏業などによって財を成す家もありました。

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