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自分の考えから自由になる

*加筆修正あり20210107

今日、Twitterでこんなことをつぶやいたんでした。

ちょっと奥歯にものがはさまったような言い方をしてしまったかな、と思いつつ。

私がちょっと気になるのは、自己紹介の文章で。プロフィールで。『毒親』というワードを表記する人の心理。

親を嫌うな、親には感謝しろ、親のことを悪く言うもんじゃない、と言いたいのではないのです。もし私がそんなことを言った日には、おまえがどの面下げて、と言われかねません。私も人並みに、いやそれ以上に根深い親との確執があり、それでも時間をかけてきちんと向き合うことで(親とではなく、自分と)親と普通に話せるようになったひとりです。

先ほど挙げたツイート同様、違和感はその対極にもあります。『親のことが大好き』『私は親と仲良し』をわざわざ言う人の心理。

人は成長過程で親とは(一時的に)必ず衝突するものだ、親と友達みたいにいるなんておかしい、と言いたいのではないのです。

どちらも、とんがっているように思えるのです。

『毒親』というワードをプロフィールに書いたら。
「あっ、私も同じです!」「私もです」「俺も」「私も」
コミュニティができそうです。このワードでつながるコミュニティ。このワードを挙げることで集まる仲間。このワードをもとに語られる話題。


どんな人も、自分の囚われていた考えや思いから自由になる権利があります。無理としか思えなくても、自分が囚われていたことを認め、そこから自由になることを自分に許可すれば、それは可能だと思います。

そのとき、そのとんがったコミュニティからも自由になる権利があります。でも、それはあなたをその考えや思いから引き離すのと同じように容易にはいかないかもしれない。コミュニティの中で語れば語るほど、同調すればするほど、『ひっこみがつかなくなる』部分が出てくるのではないか、と思うのです。
でも。

人は誰もみんな、それぞれに考えや意見を持ってよい。
そして、それを変えることもまた、かまわないと思うのです。
あのときはこう思ったけど、今は、、、と、言い直してかまわないと思うのです。

私も親に向かって、今にして思えば『たいがいなこと』を言った覚えもあります。好きか嫌いかで言ったら、ずっと長いこと嫌いでした。今も、好きか嫌いかどっち、って聞かれたら、そんなの、答えようがない気がします。

感謝する気持ちもある、迷惑も心配もたくさんかけた、それでも人としてどうなのよと思うところは父にも母にもある。そしてまた、そういうところがいいよねと思うところも、二人ともにある。どうしたってどう転んだって私は二人から生まれているんだから、いいとこどりだけで私ができているはずがない。自分が自分に苛立つことも、自分で自分をかわいいと思うことも、あって当たり前で、そしてそれはすごい奇蹟だ。

親の人生は親のもので、私の人生は私のもの。
そしてあなたの人生はあなたのもの。
親を憎み続けるのがあなたの人生かもしれないし、
親と友達みたいに居続けるのがあなたの人生かもしれない。


ただ、私は思う。
『毒親』っていうワードをプロフィールから消せる日は、きっと誰にでもおとずれる。それを自ら許可すれば。

親と自分を適切な距離で切り離し、時々好きになったり、時々めんどくさくなったりしながら行くのもまた、いいかもしれない。




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