「マイナス」感情を即座に無理に否定しない 内省し、弱さを共有する
新型コロナウイルスによって、自宅にこもって過ごす人が多い。なかなか人とも会えず、鬱々としてしまうこともあるだろう。私も一時期、ちょっと鬱っぽかった。でも、無理やり「ああ、元気にならなきゃ」「強くあれ」などと思わず、それはそれで暫く受け止めてもいいのではないか。もちろん、それが長期間続いて本格的に鬱病ともなれば治療が必要になることもあるだろうが、「マイナス」(と一般的にはいわれる)の感情や気分を一概にすべて速攻で否定してしまうのは違うように思うのだ(もちろん、背景として生活を維持する経済支援など社会による支え合いは絶対に必要だが)。
私たちにはレジリアンスがある
以前に書いた「レジリアンス」という概念がある。復元力・回復力といった意味だ。私たちの心身は容易に傷つく。同時にそれを乗り越える力が私たちには備わっているという考え方だ。心のしなやかさ、といっていいかもしれない。人類は様々な苦難にさらされてきた。そのたびに乗り越えて今日に至っている。そこまで大上段に構えずとも、私たち一人一人も「もうだめだ」「生きていられない」と思うような場面が人生の中にはあったはずだ。それでも、いま生きている。それは、私たちにはレジリアンスがあるからだ。
自分の感情に向き合いたい
終わりのみえないコロナ禍。気分が落ち込む、不安にさいなまれる時は誰でも必ずある(逆に、この状況下でそれがない人、葛藤がない人がいたら、それはそれで怖い…)。その時はその時で受け止めたい。無理に元気ぶる必要はない。弱さだなどと恥じる必要はない。内省の時と思い、自分の感情に向き合ってみたい。もしかしたら、自身の「成長」につながるかもしれないくらいの気持ちで。日々を忙しく過ごしていると、なかなか内省の時をもつことは難しい。だが、いまならできるはずだ(必死でそんな時間もないだろう医療関係の皆さんやライフライン、社会インフラを守ってくださっている方々には感謝しつつ)。過剰な情報を時にはシャットダウンし、静かに、じっくり考える時間を持つことは悪いことでないと思う。それどころか、大切なことではないだろうか。
「弱さ」をさらし共有する
暫く自分の感情と向き合って、「やはり一人では無理。抱えきれない」と思えば、自分が弱さとだかマイナスだと思っている感情や悩みをさらけ出せばいい。弱みをみせることは恥ずかしいことではない。いまの状況、多くの人はその弱みをお互いのものとして共感、共有してくれるはずだ。たとえ直接会えなくても、電話やオンライン、時には手紙(手紙は自分自身とも向き合う上で、いまの状況に良い手段のように感じる)で、そんな気持ちを吐露するだけで、自分だけではないと思えるのではないか。もしかしたら吐露する相手は人でなくても、仏さまや神さまだっていいかもしれない。それがレジリアンスにつながっていくに違いない。
悩む時節には悩むがよく候
江戸時代の僧侶、良寛の言葉に以下のようなものがある。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候
これこそが、いま求められている感覚のように思う。あるがままにあるものを受け止めたい。「悩む時節には悩むがよく候」なのだ。
そもそも「健康」にこだわる必要などない
ともすると、私たちは「健康であること」に過剰な価値を置き、重視しすぎているように思う。そもそも健康という概念自体、100人いればおそらく100通り以上の考え方があるはずだ。それでもなんとなくみな「健康」はよいことだと信じている。だから、マイナスの気分や思考をもつと「健康ではない」「普通ではない」と焦り、「治療」を受けたり、無理やりその気分から目をそらしてしまうのではないか。
でも、健康であることにこだわる必要がないとすればどうだろう。「一病息災」という言葉もある。そもそも「普通」なんて、いい加減なものだ。肩の力を抜いて心身をほぐし、あるがままに不安を受け止め、時に悩む。「悩む時節には悩むがよく候」。それくらいの気持ちでいないと長いwithコロナの時代を過ごすのはとても大変で難しいことになると思う。自分自身のレジリアンスを信じ、無理だと思えば弱みを共有しながら乗り越えたい。