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人生最終盤を社会でどう支えるかを考えたい。死に関すること、介護のことなどをテーマにした文書をまとめます。
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#コミュニティ

「われわれ」はコロナに向き合う運命共同体 その範囲は狭めたくない

新型コロナウイルスに感染する可能性がある人は誰でしょう? こんな問いを発する人がいたら、いまなら「愚問だ」と笑われるでしょう。答えは言うまでもなく「誰でも。EVERYBODY」ですから。 でも、新型コロナが広まり始めた頃、同じ問いに「中国人!」と答えて恥じることのない人たちがいました。いまでも非アジア地域の一部では、日本人も含めた黄色人種があたかも病原菌であるかのように「CHINA!」と罵られて攻撃される事例があるようです。 こうした「区分け」(端的に言えば差別ですね)は

オンライン会話はナルシズムコミュニケーション化する

ZOOMミーティングに参加していて、新型コロナウイルスによるコミニュケーションの変化が話題になった。私が指摘したのは、オンラインコミュニケーションは人類が体験したことのない「会話」形態だということだ。なにせ自分の顔を見ながら、同時に相手の顔も視野に入れて話すのだから。鏡を手にもって自分の顔を見ながら話しているようなものだ。これがコミュニケーションに質的変化を促さないわけがないと思っている。ナルシズムコミュニケーション化とでもいえようか。 否応なく自分を見ながら話す教壇や講演

afterコロナをディストピアにしない 権利制限はあくまで異常事態の自覚を

新型コロナウイルスに関する文書をnoteで、思いつくままに書いてきた。これからも書くだろう。甘いというか、こうあってほしいという願いを込めての内容になっているし、これからもそのスタンスは変わらない。それは意識しながらのことだ。というのも、実は怖がっているからだ。できるだけ希望を見出したいからだ。すでに同様の指摘は様々になされているところだが、afterコロナ社会で一番恐れ、また最も考えられるのが、実は市民的諸権利をいとも簡単に放棄することに慣らされてしまった大衆が構築する社会

withコロナ 関係性の中に生きる自分を意識する

新型コロナウイルスのパンデミックで、はっきりとわかったことの一つは、私は一人では生きられないという実に当たり前のことだった。医療、商品の生産・流通、公共交通機関、宅配、警察・消防…。そうした「社会」がなければ、社会を形成している直接は顔も知らない「みえない他者」がいなければ、自分一人では生きていけない。要は関係性の中で生きているということをあらためて認識した。そうした「みえない他者」への配慮、慮りの行動といってよいと思う「自分が感染源にならないように」という種々の行動は、この

「死のタブー」 なにが問題なの?

「忌引き中出勤に違和感」で触れた「死のタブー」について、担当している大学院の授業で話題にしたさい、こんな質問があった。「タブーがあるとしたら何か問題があるのか?」 話題にせずに済むのなら… たしかに、死を話題にせずに済むなら、それにこしたことはないのかもしれない。「死にかけている時以外、死を考えるな、と自然は教えている」(モンテーニュ『エセー』)。怖いし、できれば遠ざけておきたいという気持ちは素直だ。「生を充実させるには死を思うことが大切。『メメント・モリ(死を思え)』だよ