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人生最終盤を社会でどう支えるかを考えたい。死に関すること、介護のことなどをテーマにした文書をまとめます。
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#新型コロナウイルス

「人間らしく生きる」の意味が問われるコロナ禍 「つながり」を意識する

哲学者、内山節先生のお話をオンラインで聞く機会がありました。自律した個を前提とする西洋哲学に対し、内山先生は「関係性」を基軸に据えます。人は人と人とはもちろん、自然と人、自然と自然という重層的な関係性の中にある関係的存在という考え方です。新型コロナウイルスも関係性の視点で捉え、示唆に富むものでした。 ウイルスも関係的生命ウイルスという存在もまた、人と人、自然と自然、自然と人という関係の中に生命基盤を持つ。同時に、ひとつずつの個体としてではなく個体同士が関係しあいながら全体と

コロナとITがもたらす社会の分断 「公共圏」の再構築、対話で対抗

参加しているZoomミーティングで「インフォデミック」が話題になった。その異形的表出形態の一つといってよいだろう「自粛警察」のようなファシズム的動向も指摘された。 ITの希望背景の一つに社会のIT化があることはいうまでもない。ITの普及によって情報の伝達力はスペイン風邪が流行した1世紀前(1918~20年)の約150万倍になっている。いま、私たちは外出の代わりにオンラインで「つながり」、中国やイスラエルなどではITを活用した感染拡大封じ込め策が奏功している。withコロナの

「われわれ」はコロナに向き合う運命共同体 その範囲は狭めたくない

新型コロナウイルスに感染する可能性がある人は誰でしょう? こんな問いを発する人がいたら、いまなら「愚問だ」と笑われるでしょう。答えは言うまでもなく「誰でも。EVERYBODY」ですから。 でも、新型コロナが広まり始めた頃、同じ問いに「中国人!」と答えて恥じることのない人たちがいました。いまでも非アジア地域の一部では、日本人も含めた黄色人種があたかも病原菌であるかのように「CHINA!」と罵られて攻撃される事例があるようです。 こうした「区分け」(端的に言えば差別ですね)は

コロナ時代の日常と非日常の境界

新型コロナウイルスの緊急事態宣言下で、「日常」と「非日常」について考えた。いくつかの論点が浮かんだ。そもそも日常と非日常の境界線とは何か。その境界線こそが、かなり長期にわたるであろうコロナ禍においては、「リスク」を社会がどう判断するかという議論と不可分なのではないか。また、歴史的な長期的な視点でみれば、私たちがbeforeコロナ時代に過ごしていた日常とは、実は非日常ではなかったのか、ということだ。 長期にわたる災禍は非日常を日常とするいまが、beforeコロナ時代の日常とは

コロナ禍で気づく「余白・無駄」の大切さ

新型コロナウイルス感染拡大防止のために自宅にこもり、可能な限りオンラインで対処する日々が続く。意外とオンラインでいろいろなことができることに気づき、しかもそれが効率的だと感じることさえある。だが、それと裏腹に、目的地に最短ルートで行く効率性よりも、途中でルートを外れて寄り道したり、遊んでみたりすることで得られていたものの無上の大切さに気付かされている。「無駄」の中にこそ、予想もしない新たな発見や思いもしない喜びの源泉があるのだ、と。 「他者」の存在こそが自分を自分たらしめる

オンライン会話はナルシズムコミュニケーション化する

ZOOMミーティングに参加していて、新型コロナウイルスによるコミニュケーションの変化が話題になった。私が指摘したのは、オンラインコミュニケーションは人類が体験したことのない「会話」形態だということだ。なにせ自分の顔を見ながら、同時に相手の顔も視野に入れて話すのだから。鏡を手にもって自分の顔を見ながら話しているようなものだ。これがコミュニケーションに質的変化を促さないわけがないと思っている。ナルシズムコミュニケーション化とでもいえようか。 否応なく自分を見ながら話す教壇や講演

afterコロナをディストピアにしない 権利制限はあくまで異常事態の自覚を

新型コロナウイルスに関する文書をnoteで、思いつくままに書いてきた。これからも書くだろう。甘いというか、こうあってほしいという願いを込めての内容になっているし、これからもそのスタンスは変わらない。それは意識しながらのことだ。というのも、実は怖がっているからだ。できるだけ希望を見出したいからだ。すでに同様の指摘は様々になされているところだが、afterコロナ社会で一番恐れ、また最も考えられるのが、実は市民的諸権利をいとも簡単に放棄することに慣らされてしまった大衆が構築する社会

withコロナ 関係性の中に生きる自分を意識する

新型コロナウイルスのパンデミックで、はっきりとわかったことの一つは、私は一人では生きられないという実に当たり前のことだった。医療、商品の生産・流通、公共交通機関、宅配、警察・消防…。そうした「社会」がなければ、社会を形成している直接は顔も知らない「みえない他者」がいなければ、自分一人では生きていけない。要は関係性の中で生きているということをあらためて認識した。そうした「みえない他者」への配慮、慮りの行動といってよいと思う「自分が感染源にならないように」という種々の行動は、この

afeterコロナに残る葬送の儀礼とは

亡くなった人を送る、弔う儀礼として、最終的には何が残るのだろう。新型コロナウイルス感染拡大の中で、お葬式が大きく変容している。葬儀・告別式という流れは、今回のことがなくても葬儀の縮小化の中で風前の灯だった。家族葬が一般化して参列者は減り、「一日葬」や「直葬」などの広がりで、通夜から告別式までして火葬という形の葬儀は減っていた。それが今回のコロナ禍でとどめを刺された。 火葬場での別れの重要性感染して亡くなった方は、志村けんさんに象徴されるように、感染防止のために遺族が最後のお

新型コロナが迫る覚悟 いまこそ「人生会議」

新型コロナウイルスの感染者が急増し、人工呼吸器や病院のベッドなど医療資源の不足が懸念されるようになってきた。それに伴い、私たち一人一人に「覚悟」が求められる場面も起こりうるだろう。そんなことを改めて考えさせられたのが、1日の「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」の記者会見だった。自分が患者になったとき、たとえば人工呼吸器の装着をどうするか、家族や身近な人と話し合って心の備えをしておいてほしいという趣旨の発言があった。現実は差し迫っている。いまこそまさに「人生会議」(アドバ

引き算の生き方とは 「方丈記」にみる安心感・充足感

「with&afterコロナ」の時代には「引き算の生き方」が求められると、一昨日、記した。「引き算」にはマイナスのイメージがあるが、そんなことはない。ひとことで言えば、際限のない物質的な充足や社会的地位向上には重きを置かない、生きる価値の中心点を置かない生き方のことだ。それは、いまさらかもしれないが、「方丈記」で鴨長明が記したような満足や安心感が高まった暮らしぶりだと考える。もちろん、自分がそんな悟ったような境地、暮らしをしているかといえば全く違う。マスク販売があると聞けば列

WITH&AFTERコロナ時代 「引き算」の生き方と「祈り」こそ

新型コロナウイルスのパンデミックは、いつかは収束していく。その時、私たちはもう「beforeコロナ」の生き方には戻らないだろう。オンラインによる会話、テレワークの普及といった変化はもちろん、死生観の変化といってもいい、もっと深い、本質的なところで生き方が変容し始めていると考える。「with&afterコロナ時代」には、「引き算」の生き方こそが求められているのではないか。その生き方を支えるのが「祈り」なのではないか。 はかない命 無常いま私たちは日々、感染の恐怖におびえている