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その言葉に”何”を乗せるか、ヒト。

これを読む前に次のことを試してみてほしい。
やることはシンプル。それは、



そのまま口元の形を意識することなく、いわば発声練習のように、ただ喉から「声」だけを発する。



どうだろうか。


「あぁ」「うぇ」「んー」「はぁ」何でも構わない。
おそらく普段よりは無味乾燥で、どこか情けない発音が伴った「声」が口元から出てきたかもしれない。


人は声を発するだけでも必要最低限のコミュニケーションをとることはできるが、それはきっと指示や相槌程度のもので上のように短絡的な「単音」だけでは、建設的な会話はもちろん望めないだろう。


だからこそヒトは遠い昔に社会を作り上げる傍らで、同時によりよいコミュニティを形成するために「言語」を生み出した。これをもうすこし文学的な表現でいえば「言の葉」である。


「声」は人間に備わった機能であり、「言葉」はその意味ではツール。といえばおさまりがいいだろうか。


ではそのような前提に立った時、
「言葉」とは何のために、あなたの、その口元から発せられるのか。
なんのために、無形な声に形を与えて言葉とするのか。


他者を知るため。自分を知るため。
他者に伝えるため。何かを表現するため。何かを引き出すため。
自分の居場所を探すため。誰かをそっと包み込むため。
やり場のない感情を吐露するため。


どれでもいい。ひとつじゃなくてもいい。これ以外でもいい。
再確認したいのは、「言葉」の用途は、普段自分が意識しているよりとてつもなく多いという事である。
しかもその認識は、万人にとって共通することもあれば、各々で繊細かつ恐ろしく違えることもある。


再度問いたい。
あなたはその喉元から、口元から発する声にどのような言葉で形をもたせるか。




なぜこのような話をしたかというと、
人は何かを強調したいときに、一見すると鋭利にもみえる語彙を選びやすい。(一般には「程度表現」というらしい。)
とりわけ昨今はそのようなきらいを、ふと感じることが多いためである。
たとえば…

「くそどうでもいい」
「クッソきれい」
「バカかっこいい」
「鬼かわいい」

何かを肯定するときも、何かを否定するときも、また個人の感情の程度をあらわすときによくみられる。
もちろんその表現がコミュニティの共通認識のもとで受け入れられるのであれば、そのような使いまわしもありうるし、かくいう私も何度も使ってきたことはある。
単なる流行と言ってしまえばそれまでの話かもしれないが、それは逆に自分の内面の表現を他所から借りた言葉で補っているともとらえられる。少なくとも最近の私はそう感じてしまっている。



だからこそ最近思う。
「おそらく、ほかにも自己の表現を助ける言葉十分にある」と。



程度表現だけでなく、
物事を説明したいときや自分の主張を通したいときなども、あえて語彙を強めて言葉を並べることがある。
たしかに強い語彙で並べ立てられた言葉は、相手にインパクトを与え、印象を残すこともある。効果的であることも異論はない。だがそれだけである。
裏を返せば、その方法に頼りきりになってしまうと、次第に話し手も聞き手もその刺激に慣れ、麻痺し、価値観や物事の繊細な違いや人の情念を置き去りにしてしまうことも、いずれ起きてしまうのではないかと考えることがある。



音声配信を始めて数カ月が経って様々な経験からこういうことを考えることが増えた。
言葉は基本として、聞いてくれる誰かがいるから届くものであり、意味を成す。
伝え方と、伝わり方は違う。そのズレを縫い補うものが「言葉」なのかもしれない。


葉は樹木によって特徴があるように、話すことによって人が判別できる。ゆえに「言の葉」というらしい。
わたしたちは、これからどんな「言葉」を口に表現するのか、はたまた隠すのだろうか。




と、くそどうでもいいことを説教くさく考えた春先の天井と耳でござました。ちゃんちゃん。


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