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ひいらぎの窓【第三回】:売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき/寺山修司

こんにちは、こんばんは。湯島はじめです。
お読みいただきありがとうございます。

「ひいらぎの窓」も連載 3 回目となりました。おかげさまです。

すっかり春ですね。春です。わたしは春という季節があまり得意ではなく、一年間で一番さみしい季節という気がするのです。卒業だとか別れというさみしさではなく、そういうことを、そういうものだとあきらめて比較的すぐ受け入れてしまう自分に、まわりとの隔たりを感じてしょんぼりしてしまうという、そういうさみしさ。春。

さて、今週もすこしさみしい短歌を読んでいきます。
引き続き、短歌を読んで感じたことなどをコメント等していただけるとうれしいです。



今週の一首はこちらです。

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

寺山修司「歌集『寺山修司全歌集』より」

この短歌の初出は寺山修司の歌集『田園に死す』(1965 年)です。
有名な歌です。国語の教科書にも掲載されているものがあるようで、聞いたことがある人も多いかと思います。
今回は歌を読んでいく前に、作者の紹介をしたいと思います。



寺山修司(てらやましゅうじ 1935 年-1983 年)は、青森県出身の歌人です。寺山を歌人と言い切る人はおそらくほとんどおらず、小説・詩・戯曲・映画など活躍は多岐にわたります。
さきほど挙げた歌集『田園に死す』は、1974 年に同タイトルで映画にもなっており、寺山本人が監督を務めています。劇中ではいくつも同歌集に収録された短歌が詠まれます。今週の一首に挙げた短歌も、この映画に登場します。

わたしはこの映画を大学生だったころに観ましたが、うす暗く色あせた赤色や、酸っぱいほこりのにおい(がするような印象)ばかりが頭に残り、登場する短歌のことはほとんど忘れてしまっていました......。



改めて、今週の一首です。

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

さびしい「枯野」でふいに鳴り響く柱時計の音。
どこか幻想的でありながら、差し迫った、一瞬呼吸がとまってしまうような雰囲気です。

わたしがこの歌に触れたときにまず想ったのは、姥捨山(うばすてやま)のことだった。
姥捨山は、飢饉に倒れる人のいた時代、口減らしのために老人を山中などに捨てるという慣習を題材にした民話である。

時計は一刻一刻の時をきざむもので、ことさら柱時計というのはたいてい家のなかにあり、多くは長い間その家の住人と記憶をともにして稼働してきたものと思う。
「柱時計を売る」という状況、その光景を詩歌として切り取ったという事実は、ただ生活に困って身の回りのものを売るという描写にとどまらない、重く、暗い意思を思わせる。

「柱時計」が、たとえば人の置き換えであるという確信はないが、そのような読み方もできる一首だ。
「柱時計」を売るということが、この歌の主人公にとってはあたかも”最後の一線”であるというような印象を受ける。



柱時計はなぜ鳴ったのか。

時計はふつう、稼働していれば決まった時間に鳴るものだと思うが、「ふいに」とあるので時間もなにもわからないほどひっ迫した心境だったのかもしれない。または、時計はすでに止まっていたのかもしれない。

時計の音は時間のはじまり、あるいは終わりを告げる。
わたしはこの一首のなかで鳴る時計の音は「はじまり」であるという印象を持っている。
何のはじまりなのか。
ディズニーのアニメ映画『ピーター・パン』のなかでは、ビッグベンの時計台の鐘の音とともにネバーランドへ冒険がはじまるが、この短歌ではじまるのはおそらくそんな夢のあることではない。

本来なら決して売るはずのなかった、売ってはいけなかった柱時計を売らなければならない。時計(蓄積された記憶や時間)を売ってはじまる、続いていくのは、つめたく、荒涼としたそれからの生活だけである。

それでも主人公は、重い時計を横抱きにして、売りにゆく。枯野をゆく。
恥や自罰といった感情をもちながら、そうしてもなお生活は続いていくのだという残酷さ。そして希望。

わたしはこのひどくさみしい一首に、人間の生命力とかなしさを強く感じる。



一昔前のアニメの OP って、時計の音で始まるものが多かった気がする。具体的にどれとは思い出せないんだけど、あの演出すごくわくわくした記憶があります。摂取したいので心当たりがあったら教えてください。


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