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わたしたちの夢見るからだ【第十一話】:なぜタトゥーが好きかそれでも考えてみた

 前項より引き続いて、なぜタトゥーを好きなみんながタトゥーを好きかについて無理やり一括りにまとめるよりは、なぜわたしがタトゥーを好きかということについて先に書いた方が良さそうな気がし、それについて書く。


・自分と外界の区別がつく

 皮膚が自己以外と自己を分ける境界であるとしよう。その境界に初めて彫られたタトゥーを確認した時、無味なコンクリートの壁にスプレー塗料を吹き付け、完成させたグラフィティを眺めているライターのような心持ちになった。

 壁を壊したいわけではない。壁が自分のものになる気がしたのだ。

 その気分がタグをドロップするグラフィティライターのそれと相似形をしているように思われた。

 またわたしは、以前から電車が苦手だった。他者の意識がはみ出し横溢している空間、他者との距離感の近さにより自己を侵食されるような居心地の悪さを、電車という空間ではいつも抱いていた。しかしタトゥーを身体に彫るようになってからすこしだけ電車に乗るのがこわくなくなった。

 自らの意志によって自他の物理的な境界をカスタムするほど、わたしの表面は魂を包む皮としてくっきりとその存在を主張し、自己と他者のとてつもない交わらなさの証明として、より印象的に可視化され機能することになったから。


・皮膚に描かれるモチーフとそれにまつわる文化への関心、愛着がある

 わたしの場合、それはある本のあるページのさし絵だった。それがとても素晴らしいと思って、それ(の全てではなくてもそれを象徴する何か)のタトゥーを皮膚に彫ろうと思った。

 その本を持ち歩くまでもなく、それのようになりたいのではなく、ただ常にそれと共にあることを可視化したかった。

 自己の体験による事項は以上であるが、他者についても想像の範囲で書けば、


・所属意識、所属の証明

 わたしは自分を他者から区別するのにタトゥーを機能させようとしたが、そのちょうど逆も可能そうだ。その場合彫られたタトゥーは、個としてではなくある集団への所属を証明し、他集団の他者との境界はより強固なものとなるのだろう。

 トライバルタトゥーについて、それを身体に彫った人の言葉が印象に残っている。その人は、自らの血縁による所属意識が曖昧なのだと言っていた。血縁だけでなくどのような集まりにも所属意識を持ちきれない自身だが、任意のトライブに属するタトゥーを選択することによって、自らの所属意識を規定しようとしているのかもしれない、とその人は語っていたのだった。


・通過儀礼

 痛みとそれに耐えたことを自分と他者へ証明するものとしての、何らかの外見の変容。ピアスや、瘢痕を作ることも同じ意味を持ちうるかもしれない。

 体験によって意識を望ましいように変容させようという試みは、痛みを伴うそれにかぎらず様々な形で行われてはいるだろう。だが外見の変容が伴うという点が象徴的なのだと思われる。

 タトゥーを入れることそれ自体に文化的なコンテクストを伴わない根本的な反体制性が宿っているとすれば、他ならぬ自らの意志で意識を変容させることができる、自らによって自らをエンパワメントすることが可能だという理由に依るところが大きいのではないかと推測する。


・身体の装飾

 ひとりの人間のほぼ全身の皮膚を、あるタトゥーアーティストによってトータルにデザインすることを志向したタトゥーワークは、現在の東京や日本各地のそれよりはむしろ欧米圏の方によく見られるように感じる。

 そのようなタイプのタトゥーを見てみると、人間の身体の表面をより洗練された方向にデザインすることこそがタトゥーアーティストの主な仕事である、と考えることも容易になるかもしれない。

 いずれにせよ、上記に挙げたどれか、または他の理由で彫られた全てのタトゥーが、個人の祈りが具現化したものであることを、もしできれば否定しないでほしい。

 そうでなければせめてわたしがそう信じ、またそのようにあれと願うことを。


執筆者:無(@everythingroii)

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