わたしたちの夢見るからだ【第十話】:どうしてタトゥーが好きなのかってひとことじゃ答えられない
そもそもタトゥー=反社会性や反体制的の印象自体、あまり珍しくないもの、少数でない人が持っている価値観だという印象がある。
統計として反社会や反体制の方針を持つ個人や団体がタトゥーを入れている確率は、わたしの人生において観測された範囲ではあるが、直接的に高くあるのは間違いないことのように思える。
またさまざまな文化圏においての、いわゆるギャングのタトゥーカルチャーについても、それぞれがある程度のポピュラー性を獲得しながら、独自の体系とそれを愛好する人々の集団を擁していることが多いように思える。
なのでタトゥー=反社会性という価値観も、それが全てではないにしろ、根拠の充分にないものだとは全く思わない。
むしろわたしが問題にしたいのは、上述の、それが全てではない、の余白の部分だ。
つまり、ギャングカルチャー、日本で例えればいわゆる本職の和彫りやその価値体系の中にあるヤンキー的な「ワル」文化、そこから外れたところでタトゥーを愛好したり実践したりする、ということについて。
それがどういうことなのか。それをしているみんなどんなかんじでやっているのか?
わたしがタトゥーを入れてみることについて考えたきっかけは文学だった。
『蛇にピアス』金原ひとみ著、芥川賞関連で大々的にとりあげられた作品なので読んだことのある方も多いのではないか。
表題の元になっているスプリットタンの他にも、身体改造文化、その一環としてのタトゥーが、文中の主人公の体験として作中で描写されている。
その描写によってわたしははじめて、タトゥーを、自分にも体験できるものとして、自らの身体にも彫られうるものとして認識した。
それまで考えたこともなかったが、タトゥーが入っている人もはじめはタトゥーが入っていない状態であって、自らの意思でタトゥーを彫ろうと決定しタトゥーの施術を受け、皮膚の上にタトゥーを獲得し、そうしてタトゥーが入った人となるのだ。
フィクション作品ではあるにせよ、『蛇にピアス』には、タトゥーがない人がタトゥーがある人になる過程が描写されている。
自分にもタトゥーを皮膚の上に獲得する権利と可能性があるのだと、わたしはその時初めて気付いたのだった。
自分にもタトゥーを入れる権利と可能性がある、と気づくかどうか。その権利と可能性を手にした時、それを実現しようと考えるかどうか。
人それぞれの選択があるだろうが、わたしは皮膚の上にタトゥーが欲しい、いつか必ず入れるだろうとすぐに考えた。
まだ未成年だったし、タトゥースタジオがどこにあってどんなふうに稼働しているのか、本に書いてあった以上のことは分からなかったが、自分がタトゥーを得ることが、人生にごく自然に発生するだろうと思った。
タトゥーがなぜ好きなのか?と考えるとその問いの裏側にはタトゥーを知っても入れるという選択肢に至らない人々の無数の後ろ姿が見える気がする。
なぜ自分はそうではないのか。なぜそうでない人はそうでないのか。
タトゥーについて語ろうとしたとき、まずいまのわたしにとって当然のように傍にあり、無根拠に自然発生したようにすら思える、入れられるんならもちろん入れるっしょタトゥーというノリ、当然さが表面を固く覆っており、その当然さの中に何か語りやすいあるひとつの出来事や動機や必然性、それらが絡み合い発生するストーリー、などが見当たらないことに辟易としてきた。
語りやすいストーリーのないことについて、それでもなんとか掴めた真摯な感触のあるしっぽのような記憶や体験を、こうして文字にして毎回記事を書いてはいるが、それらが形成した意味の円環の中心に何があるのか何もないのか、あるならそれをどう捉えどう扱うか、そこに依然分かりやすい入り口のようなものは見当たらない。
それでもわたしはタトゥーにまつわる全てによろこびと生きる実感を濃く感じながら、施術をしたり誰かにタトゥーを彫ってもらったりしているのだから、何もないはずはないのだ。
ただそれの横顔は、きっと見慣れすぎた空気のような表情をしているのだろう。
今のわたしに当然のようにまつわる本来なにも当然ではないものたちと同じように。
それに自覚的であろうとすることの容易でなさが、固い壁のようだ。
執筆者:無(@everythingroii)
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