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わたしたちの夢見るからだ【第三話】:踊りの記録

 舞台に立ったことがある。纏うものはあっても、そこでは体ひとつの物語ることだけが唯一の声であり、空間に対して容赦なく効果し、観るものたちに届く。

 しかしあらためて、舞台とはなんだろう。観るとはなんだろう。
 わたしたちは普段から自らという物体、精神の伴う生きる肉として、ある振る舞いとその影響が複雑に反響してゆく大きな即興劇の中で生きてゆかざるを得ない。
 駅前のざわめきを高いところから眺めると、それは渦巻いて立ち上るひとつの現象だ。無限に生まれ波紋のように広がってゆく。
 あるいは何ものからも切り離された孤独の中であっても確実に、自分自身が自らの振る舞いを見つめている。そのような状況では、自分を見つめることと自分に見つめられることが、合わせ鏡のように反響してゆくだろう。

 自分が自分の身体を使っている、という意識が生まれたとき、つまりわたしがわたし自身の身体の部分を発見した瞬間は、踊り手として舞台に立とうとしたことがきっかけで訪れた。
18歳の時だ。

 そこは、講義に使われる大きくはない教室だ。机と椅子を全て黒板のほう、教室の前半分に寄せれば、後ろ半分は数人が走り回れるくらいの空間になる。
 陽は丁度落ちきる時刻だった。ドアと窓を閉めカーテンを引けば室内に濃い暗闇が満ちた。
 コロガシと呼ばれる床置きの照明が用意され、電源につながれる。ツマミで光の明るさがグラデーションのように操作できるそれで、空けられた教室の後ろ半分を少し離れたところからじわりと照らし出す。
 すると、光に照らされたところ、照らされ残った影のところ、壁と床と天井で囲まれ一方向に開いているその空間が、舞台になった。
 舞台ではふたりの踊り手が準備運動のような動作をしている。
 音楽がかすかに流されているのは、沈黙がまるで質量を持つようだからだろうか。南米を連想する、熱のあるゆったりとした調べだった。
 好きに踊っていいよと言い渡されてはいたが特に指導のようなことは何もないまま、3人目の踊り手として手を引かれ舞台に導かれた。どのようにあればいいのかわからないわたしは、角の薄暗がりで膝を抱えて、ふたりの動き、伸び縮みする影や衣擦れの音、裸足が床を叩く音などを意識していた。
 音楽の大きさと光量がゆるやかに引き上げられると、ふたりの踊り手は各々気ままに、あるいは何かに導かれでもしているかのように、身体を動作したり止めたりし始める。
ふたりは見られる身体としてとても自然のようだった。身体から発するさまざまな質の情報が舞台空間に影響を与えていく。
 自分自身の肉体も舞台空間に置かれて見られている以上、ある質の情報を放つことを避けられはしないのだが、それにしてもわたし自身のどのような身体の動きによってどのような情報が放たれるのか、そのときの私には何ひとつ見当がつかなかった。
 たとえ任意の意図を持って動いたとして、一度動き出せば自分自身の体があまりにもとめどなくあけすけに語り出してしまうような気がして、恐ろしく、わたしはただただ膝を抱え動けなかったのだ。

 幼い頃、姿勢を良くしろと度々言われることがあった。歩き方が怠そうだというような意味のこともまたよく言われた。
それはわたしなりの反抗だった。怠く見えるような動きをして、理不尽なことの多い環境への耐えられなさを表現しているつもりだった。
 今思えば日常の中にもそのような身体表現は無数にあって、それが舞台となると何もかもわからないような気持ちになったのは、舞台上では、あるいは視線を集め立つ者はみな全て美しくあらねばならないという先入観から、またその「美しさ」への理解の不十分さからだろうか。

 踊り手のひとりがわたしの方へ歩んできた。踊りのような歩み、歩みのような踊り。

 歩みと踊りの違い。その時は何も違和感がなかったが、両者の間には無数の差異の段階がグラデーションをなして存在している。
 移動のために歩行をする人を見て、わたしたちは踊っているとは思わない。踊りの作品において歩行動作をしている一部分を抜き出して、今踊り手は移動のために歩きました、と思うことも少ないだろう。
 ではしかし、それがコントにおける歩行であればどうだろう。あるいはランウェイでのモデルの歩行はどうか。また、歩行動作の長さや速さによっても異なるかもしれない。

 だが、その時わたしに近づいた踊り手の歩行動作は、それまでの踊り手の動作とシームレスに繋がっていた。わたしに近づく意図があきらかですらないようなその動きのまま、不意にわたしの頭上に踊り手の腕が差し伸べられ、リアクションをとる間もなく掌がわたしの頭頂部にごく軽く、叩くようにぽんと触れた。
 その時の衝撃は何だったのだろう。
 むろん物理的な衝撃の強さではない。叩くようにとはいってもとても柔らかなタッチだった。ピアノのキーをたたくような軽やかさで触れられたわたしの頭頂部から、しかし何かが電撃的に身体中をかけめぐるような衝撃を感じた。
 触れられるということ。
額縁の中の人物さながら、どこか違う時空間にあるようだった踊り手が、その掌が、自分の頭上に舞い降り触れた時、まちがいのない繋がりを、同じ場所同じ時にあることを、強い実感と共に知らしめられた。

 まるで何かのスイッチが頭頂部にありそれを押されたかのように見えただろう、側から見たら笑ってしまうような光景だったかもしれない。
 頭頂部を叩かれたわたしはぐらつきながら立ち上がって、そこからはもう半ば意識の及ぶところではなかった。
 身体がとにかく動きたがっていることが分かって、止める理由は初めからなかったのだから、動きたがるように動いた。
 頭頂部から身体中にゆきわたるように感じたのは、ベクトルを持った動きのエネルギーのようなものだったのかもしれない。
 バトンを渡されたように、その動きのエネルギーのベクトルに従うまま動き続けていると、身体の内側を統制の効かないエネルギーの波が打ち返しまくるような感じがした。
反響した動きの波はなかなか収まらず、わたしはそれこそ糸の切れた操り人形のようにとにかく四肢を、頭を、背骨を骨盤を肩甲骨をその周りの筋肉を、身体の可動部すべてを思い切り動かし続けた。
 筋肉が重力に抗うことが面白かった。投げ出した手が落ちてゆきそれが腰にぶつかる衝撃が面白かった。足の裏に床面を固く感じること、足で地面を受け止めなければ身体のどこかが床面に落ち、その衝撃がまた新しい四肢のばらつきとそれを結ぶ胴体のうねりを生んでゆくこと。なにもかもが発見だった。

 気がついたら音楽と照明が徐々に落とされてゆく最中で、それに伴い、日常を社会的に過ごすために身につけた意識や身体のあり方のようなものが、緞帳が下りるようにして自分自身に落ち込んでくるのを感じた。
 随分いろんなところが痛くなっていた。そのように無軌道に力いっぱいに身体を動かしたのはごく幼い頃ぶりだったから、打ち身もあれば、ひどい筋肉痛にもなるだろうな、と思った。

 わたしの踊りの原初体験はそのようなものだった。まだそこに見られることは存在せず、見られるための動きも存在せず、ただ動くためだけに動く身体と、肉の塊としての存在の実感があった。

(つづく)

執筆者:無(@everythingroii

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