僕の左のアイデンティティ

どうしてうちの息子がこんな目にと泣いていた両親も、3日も過ぎると周りと同じことを言った。

見舞いに来た親戚も、学校の友達も、彼女も

皆が同じことを言った。



事故に遭って意識を失っていたけれど、逆に言うと事故の瞬間まではしっかりと覚えている。高校から2駅のところで電車を降りて、そこから徒歩5分の帰り道に事故に遭った。白い乗用車が僕に向かってきて、咄嗟に逃げようとしたけれど間に合わず、左腕の肘から下が車と建物の間で潰れた。きっと現場には車が建物の外壁に突っ込む音が響いていたに違いない。でも僕の中では、自分の肉と骨が潰される音の方が大きかった。あの瞬間、僕はどんな顔をしていたんだろう。きっと情けない表情だったと思う。そして、あまりの痛さとグロさに、僕は全てを拒絶するかのように意識を失った。まるでそれが自分の意志だったみたいに。

目を覚ました時、もう左腕は無かった。

鈍い痛みだけがずっと続いて、我慢できなくなったら薬を飲んでの繰り返しだ。看護師のあんまり可愛くない女性に、食事のサポートは必要か聞かれていらないとだけ答えた。利き手は無傷なので箸だって持てるし、左腕も肩から15センチくらいは残っているので皿が動かないように支えることもできる。

「本当に、利き手じゃなくて良かったねぇ」

隣で見ていた母に言われた。もう何度も聞いた言葉だ。先生にも看護師にも、伯父さん夫婦にも、学校の友達にも、彼女にも。彼女は病院に来て僕を見た瞬間、険しい顔をした。あの顔は忘れない。「心配かけないで」とか「何やってるの」とかそういうのではなくて「うわ、マジかよ」と、目が言っていた。一番されたくない顔だった。心配して泣いて欲しい訳ではないが、あんな顔は見たくなかった。そして終いには

「でも利き手じゃなくて、良かったじゃん」

だ。一度でも、嘘でも良いから、僕の左手を弔って欲しかった。

他の皆もそうだ。最初だけは、大変だったねと言って、すぐに利き手が無事だったことを称える。僕は「本当に、ラッキーでした」とだけ零す。それも、毎日。何回も。皆が同じことを繰り返す度、僕だって同じことを繰り返す。表向きでポジティブに片手で器用に生きて行こうとしながら、本心は絶望感から抜け出せない。それを、ずっと繰り返している。

意識が戻ってから1週間が過ぎて、僕は明日退院する。

自分の部屋に戻ったら、少しは絶望感に浸れる。そう思った。病室なんて所に僕の人権はなくて、管理された生活しかできない。もちろん相談すれば面会も拒否できたと思うけれど、心配して来てくれている人を拒絶するなんてこともできなかった。結局は僕の意志が弱いだけだ。こんな中途半端な性格だから、僕の左腕は無くなったんだと思った。誰にも見られない僕の部屋で、こっそりと自分の感情を剥きだしにしようと決めた。

病室でぼんやりと窓の外を見ていると、白衣を着た男性が入ってきた。いつもの先生ではない。

「少し、良いかな」

「はい・・・あの、誰ですか?」

険しい顔で、僕の「無い左腕」を見つめている。険しい顔と言っても、僕の彼女の見せた表情とは少し違った。

「君の手術を、担当したのは私なんだ」

「・・・は?」

しばらく固まった。いつもの若くて少し太った先生が手術をしたのだと思い込んでいた。白髪交じりの長身のこの男性が言っていることは簡単な文章なのに、頭の中で処理が上手くできなかった。ようやく理解して向き合おうとした時、僕には白髪混じりのつむじが見えた。

「申し訳なかった」

「・・・は?」

頼むからこれ以上混乱させないでくれと思いながら、僕にはつむじを見つめることしかできなかった。

「腕を、残してあげられなくて・・・本当に・・・」

驚いた。自分の2倍以上は生きてきたであろう大人の男性が、泣きながら僕に謝っている。大人が深く頭を下げる光景なんて、テレビの謝罪会見でしか見たことがない。

「いやいや、なんで先生が謝るんですか!運転してた奴すら謝りに来ないのに」

「彼は、君のお母さんが追い返したんだ。聞いていなかったんだね」

初めて知る情報が何MBあるか知らないが、僕の脳内USBはもう容量がなくなりそうだ。いつもの先生はただの巡回医で、手術をしたのはこの男性で、事故を起こした運転手は無事で、謝りに来ていたけれど母が追い返した。きっとこれは両親も伯父さん夫婦も知っていた情報だ。利き手じゃなくて良かったとか余計なことは言うくせに、こういう情報は誰もくれなかった。なんだかむかついた。

「まぁ・・・余計な心配かけたくないから・・・とかですかね」

「きっとそうだと思う」

こんな時にも思ったことを何重にもオブラートに包んで発してしまう自分に嫌気がさす。

「で、なんで先生が謝るんですか?」

もうどうでもいい。この人にどう思われようと僕は明日退院するのだから。そんな気持ちで冷たく、少し偉そうに言った。先生は、また僕の左腕があるべきだった部分を見つめて言った。

「不便なんて言葉じゃ、片付かないだろう」

「でも、利き手は無事です。皆も言いますよ。利き手じゃなくて良かったねって」

僕はおどけた顔で右手をグーパーして見せた。どうせこの人も、本当にそうだねって笑うに違いない。何度も言われたからこれから先何度言われようと何も思わない。開き直って先生の目を見ると、僕の彼女がした「うわ、マジかよ」って表情をしていた。彼女が僕の左腕に放った顔を、先生は、今はここにいない僕の周りの皆に向けていた。

「そんなことを、言われるのか」

「え・・・皆、言いますよ。実際そうだし」

「違う」

先生は僕の言葉を遮って否定した。

まずい。

この人の正体を知る前から、わかっていた。この人は皆と同じことは言わない。両親も、伯父さん夫婦も、あの小太りの先生も看護師も、友達も、彼女も、皆僕の傷口の部分と右手を見ていた。けれどこの人は、左手が確かにあった位置をまっすぐに見てきた。右手なんて見ない。そこに無い左手だけをじっと見てくれた。

「右手が無事だったのは確かに良いことだけど、左手の代償には絶対にならない。君が運ばれてきた時、左腕はほとんど潰れていて切断するしか無かった。でも、他に選択肢が無かったとはいえ、切断したのは僕だ」

この人は、僕の左腕が瀕死の時から、なくなった今でもまっすぐ向き合ってくれている。僕の目からが勢いよく蛇口を捻ったみたいに涙がぼたぼたと零れた。明日、家に帰ってから流そうとしまっておいた涙と感情が、一気に溢れ出す。先生が近くに来て、背中を摩ってくれた。

「運転手の男性にも、話したんだ。保険のこととかあるからね。彼を庇う訳ではないけど、彼は私や君以上に泣いていたよ」

「なん…で…です…か…」

情けない、掠れた声しか出なかった。喉がカラカラだけど、そんなことはどうでもいいと思った。

「まだ若い少年の、未来ある左腕を潰してしまったって」

僕はぐしゃぐしゃになって泣いた。まるで顔も怪我したんじゃないかと思うほど、表情筋が嘘をつけなくなっていた。僕は運転手の男性をほとんど覚えていない。20代で免許を取ったばかりの男性だとは聞いていたけれど、見た目の情報は入って来なかった。別に恨んでもいなかった。何故だかはわからなかったけれど、今ようやくはっきりした。僕は、左腕を潰した男性よりも「利き手じゃなくて良かった」って言う奴らを、その台詞を恨んでいたんだ。

潰した人と、切断した人は、ちゃんと僕の無くなった左腕と向き合ってくれていた。

しばらく僕は泣き続けた。窓の外は、すっかり暗くなっていた。先生は僕が泣き止むまで一緒にいてくれた。

「もう少し早く話しに来たかったんだけれど、いつも誰かがいてね。君が1人の時が良いと思っていたら遅くなってしまった。君が人気者で困ったよ」

先生が少し笑って言った。両親も伯父さん夫婦も、決して近所ではない総合病院に毎日来てくれた。彼女だって電車を乗り継いで、僕の意識が戻ってからの1週間のうちに4回も来てくれた。学校の奴らだってそうだ。1週間したら退院できると連絡したのに、待てねぇよと言って来てくれた。本当はすごく感謝していた。お陰で不安になる時間はほとんど無かった。

「利き手じゃなくて良かった」なんて言葉も、誰も嫌味として言ってない。そんな奴、僕の周りには1人もいない。

僕の左腕を弔ってくれる人はちゃんといたし、きっと周りの皆は必要な時は助けてくれる。本当ははじめから、何も恨む必要なんて無かった。

きっと僕はこれから先、何度も絶望感を味わう。周りの友達がバンドを始めたりスポーツしてるのを見て、できない自分を悔いたりもするだろう。「世の中にはもっと辛い目に遭ってる人もいる」なんてよく言うけれど、自分が辛いと感じたらそれは辛いんだ。その辛さを隠したり、うまく付き合ったりして生きていかないといけない。大丈夫だ。僕は存在しない左腕と向き合いながら、右腕とうまく付き合っていける。

次の日僕は、真っ赤に腫れた目をして退院した。思いっきり伸びをする僕の影は、やっぱり少し歪に見えた。荷物を持ってくれていた彼女と、少しだけ笑った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?