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「何故わたしなのか?」を言語化するとお守りになるらしい

子供の頃から「なんで?」「どうして?」が止まらない子だった。

誰かを困らせたかったわけではないし、いたずらで聞いていたわけでもない。本当にただシンプルに、目の前で起きていることの理由が知りたかった。

宿題をやらなければいけない理由。
全員の登校時間が決まっている理由。
クラスが分けられている理由。

地球が丸い理由も、空が青い理由も、とにかく口を開けば質問攻撃がはじまるわたしを先生たちは明らかに煙たがっていたし、そのたび困り果ててため息をつく両親を見ては、ああこの答えは自分で探さなければいけないのだと、悟ったのは中学生の頃。
それから考えることは私にとって癖のような、もはや一種の趣味のような存在になった。

そのまま成長するとどうなるかは一目瞭然で、期待を裏切ることもなく、出来上がったのは何事も理由がなければ納得できない頑固な大人でした。

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こんな事言ったら自分の性格を人のせいにしてはだめよと真面目な人には怒られてしまうのかもしれないけれど。整理整頓は笑ってしまうくらい下手なくせに、理由だけはきちんと名前を付けて、あるべきところにしまわないと気持ち悪いのは、どう考えても幼少期の体験のせいだと思うのはずるいでしょうか。

ちなみにプライベートだけではなく仕事の場面でももちろんそうで。何かお願いされると、それについて「何で私なの?」「何で他の人じゃなくて私が良いの?」をとことん考えてしまう。

もちろんありがたいことに、発信力とか、写真が好みとか、そんな風に言言ってもらえることもあるけれど、やはりそれも根本が知りたくなる。

写真のどんなところを好きだと思ってくれたのか。発信力といえど上には上がいる中で、どうして私と一緒にそれをやろうと思ってくれたのか。
だから、大人になった今でもつい「なぜなに攻撃」をしてしまうのだ。

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相変わらずプライベートだと煙たがられてしまいそうなこの癖も、仕事の場面ではプラスに働いてくれる事が多いのだと、大人になってから知った。

なんで私にこれを頼んでくれたのかをきちんと消化して、納得して、自分の中にある”だから”とイコールで結んであげることができると、それが自身ややる気や、安心感に形を変えてストンと落ちてくる。

逆にそこをはっきり自分の中で消化できないと、迷子になってしまったり、疲弊してしまったりする。

どう考えてもわからない時は素直に相手に尋ねてもいい。
なんで私なのか。それが感情的な答えでも良いし、打算的な答えだって構わない。

「なぜ?」を明確にしておくのは、いわば自分の方位磁針をつくる作業なのだ。

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photo by - GENIC

だけれど今の会社ブライトログに所属をして、早くも1年。

この場所は、いつも頑固で面倒くさい私のやりたいことを尊重して、息のしやすい環境を整えてくれる。

最初の頃は会社に「君の好きなようにやりなさい」という言葉に逆に戸惑ってしまい、何もできなくなってしまった。それは多分その裏側にある「何故」がいくら探しても見えなかったからだったのだと思う。

この世にはどうやら、なぜ?の理由が必要のない愛もあるのだ。

愛に甘えすぎず。お守りに頑なになりすぎず。
良いバランスを探しながらこれからもこの愛とお守りを手放さないように、握り締めて生きていきたい。

そう思った会社員復帰1年目でした。

Writing by - 古性のち


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