AIは勘違いしなくて、人は勘違いするから面白い

子どもはびっくりする速度で成長する。
急に3語文(パパ、あっち、バスある)を話して驚かせたり、突然ボールを蹴れるようになったりする。

これを見て「うちの子はもしや”天才”なのでは?」と親ばかな僕は勘違いするわけだが、こういう「勘違い」や「思い込み」が人らしさや、才能とよばれるものの起点ではないだろうか。

自身の子供時代を思い返すと、勉強が得意だった記憶がある。
ただこれは祖父母や両親含めた周りの大人が、「賢い、できる子」と褒め続け、僕が勘違いした結果であって、今となっては本当に勉強が得意だったのかは分からない。

実際、入学した中高一貫の進学校では、勉強をしなくなりどんどん落ちこぼれていった。
中学入学時の試験順位は上位10以内だったところから、最後は下から5番目まで下がっていた。最終的には高校を辞めてしまうので、下から5番が高校最後の試験の順位となる。

ここでの面白さは、「勘違い」に気づかなければ突き進んだ可能性があるということだ。Creepy Nutsというアーティストの「かつて天才だった俺たちへ」の曲にあるような話だ。

少なくとも、小学校までは「勉強ができる」と勘違いし続けたため、自ら進んで楽しく勉強をしていた。しかし、中学受験で進学校に入学したことで、相対的な周りのレベルが上がり、「あれ?もしかしてそんなこともないかも?」の気づきとあわせて、勉強への意欲も下がっていった。
もちろん視野が広がり、勉強が全て的な価値観から、部活やら、遊び、その他青臭いくだらないことが価値の中心になったというのもあるだろう。

この実体験の良し悪しは置いておいて、「おれもしかしてすごくない?」的な勘違いは、好きの源泉になり、行動につながる
そして、好きで行動すると本当に何か新しいことを生む可能性は高まる。一方で、AIは「おれすごくね?」と勘違いしないから、新しい道を突き進むことはない

そう考えると、この「勘違い」や「思い込み」が人らしさや才能なんだと思える。

ちなみに、僕は自分の子供が「天才」である可能性を捨ててないし、なんなら僕自身ももしかしてまだ……と思い込んでいる。

text: Takehiro Nagi


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