便利と窮屈に押されて
私はいつも、丁寧に首を動かす。自由に気のまま動かすわけにはいかない、そういう「時代」であるからだ。
新しい機種のスマホが生まれる度、「またたいそうなものができたなぁ。」と何度も感心してきたが、このネッコンなんて技術は、どの時の感動も遥かに超えてきた。右に首を動かせば、様々なアプリを表示したあの「スマホ」の画面がそのまま目の前に出てくる。人はやはり変化を嫌う生物だ。使い慣れたあの画面をということなのだろう。この画面、なんでも、空気中の水蒸気に投影しているとかで、どういうわけか自分にしか見えない。左に首を動かすと、心拍数や歩数などの健康状態が表示される設定になっていたが、幸い私は至って健康体なので、マップを出すようにカスタマイズした。また、下を向くとどこでも決済できるカードが表示される。もう一度頷けばあっという間に支払い完了だ。他にも、上を向いてぐるりと一周すれば天気が表示される、だとか、右斜め上を見て「うーんと」と呟くと適度な嘘が表示される、だとか、なんだか洒落た機能も選ぶことができる。
たった5センチほどの黒い筒状の機械を首にぶら下げるだけで、なんでもできるわけであるから、科学の進歩というのは本当に凄い。これからきっと、あのスマホが辿った道のように、小ちゃくなったり大きくなったり、カラフルになったりするのだろうか。見てきたものの中からしか想像力を働かせられない、自分の貧相な前頭葉を虚しく思いながら、考える。
この機械の、ネックコントローラーという、いかにも理系の人間がつけたであろう名前だけは好きになれない。ネッコンって略し方もまあ酷い。ただ、そんな悪点は、この機械が普及したことによる人々のストレスの減少を思えば、見えないも同じである。
しかし、私は時々悲しくなるのである。今や、私の動きの全てに意味が生じてしまうからだ。たまには意味もなく空を見上げ首を回したり、胴体と分離して首を動かすあのインドのダンスの動きを練習したりしたいのだ。しかし、そんなことは言っていられない。これは「時代」なのだ。いつしか日本人は、私のような古臭い物事を言う、いわゆる老害を制すための強固な言葉として、「時代」という言葉を使うようになった。元は単なる名詞であったはずが、「時代」は「時代は変わったのだからしょうがないじゃないか」という意味をまるごと包括してしまったのだ。
確かに今の世は便利で素晴らしい。ただ、窮屈である。窮屈に感じることも、窮屈にしかできないこの時代に、虚しさを感じるのは、増えすぎた私たちおばじさんだけなのだろうか。あぁ、この「おばじさん」というのも「時代」である。性別によって呼称を分けるのは性差別だということで、使われるようになった、おばさんとおじさんを指す言葉だ。使い慣れた言葉さえ、時代によって制限されてしまった。やはりこの世は窮屈だ。
私は、ネッコンに人差し指を触れて3回続けて瞬きをし、「おばじさん」という言葉は「ば」が先であるから男性蔑視であると主張する記事を、あてもなく開いた。