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他人のキラキラした人生がつらい人へ

「SNSを見るのがつらい」

友人が何気なく呟いた一言でした。聞くと、TwitterやFacebookで様々な「凄い人」が活躍ぶりをアップしている。それに比べて自分は…と思ってしまい、不安や焦りが湧き出てくるようです。

たしかに、最近では「何者かになりたい」という言葉もあちこちで聞くようになりました。前向きな自己実現願望なら素晴らしいのですが、正体が「他人のキラキラした人生」への競争心ならば考えものです。それだと「何者かに思われたい」の間違いじゃないかと思うのですが…。

ちょうどその頃に読んでいた「<普遍性>をつくる哲学」の終章に、SNSをはじめとする「他人のキラキラした人生」への言及がありました。本書は「新しい実在論」という哲学の新しい潮流に関する解説書です。よって、哲学の初学者には難解かも知れません。

ただ、それでも終章の「もう一度、自由を選ぶ」でのSNSとそれを見る人々に関する言及はお金を払ってでも読む価値があります。

メディアやSNSを通じて、一生懸命に頑張っている人、充実した生を送っている人、新しい分野で成功した人の情報は常に入ってくる。
情報が全体化することで、「地元で一番」では満足できなくなり、インターネットで検索すれば、自分と同じ年齢なのにすごい人がいくらでも見つかる時代になった。
ここで、そうはなれない自分に疲れるのである。

自由と平等は両立しない

なぜ他人のキラキラした人生が気になってしまうのでしょうか。それは僕たちが「自由な社会」を生きているからです。

もしも僕たちに自由がなく、誰もが同じ人生を送ることを強いられているとしましょう。そうなると、当然ながら僕もあなたも収入や生活ぶりに大きな差異は生じません。したがってキラキラの有無など生じようもありません。

収入や生活ぶりに大きな差異が生じない社会、これは「平等な社会」を意味します。平等は貧富や生活水準の差を打ち消し、キラキラした人生の源泉は失われます。これを突き詰めたのが社会主義ですね。

自由と平等は、本質的に両立しません。自由主義と社会主義の対立、革命による政権転覆といった歴史は、すべて「自由か、平等か」が争点でした。

そして、いま自由を選んでいる僕たちは、自由ゆえに他人との人生の違いに直面しています。自由は「自分自身を表現せねばならない圧力」に転じて、「キラキラした人生」を送れない者に自由の行使を駆り立てます。

自由の意識は、自由が成熟していく社会の内側で、行き場のない不安や焦燥感に変質している。

多様性に食い荒らされる

ところで、近年つとに重要性が指摘される「多様性」という概念。これこそ自由な社会ならではの発想です。人は、人それぞれの価値観とバックグラウンドに基づいて生きて良い。「人それぞれ」は人生の差異の原動力となる資本です。

多様性が過度に強調されると、これは裏返って命法になる。あなたは自分なりの感受性や考え方を形成して、それを表現しなければならなくなるのだ。
多様性は差異によって作られていくが、他者との差異を確立できない凡庸な人間は、生き方の多様性から置いてけぼりにされた気がする。世界から取り残された気がする。

本書では、こうした状況を「SNS疲れ」と断じています。自由がもたらす多様性、多様性の源泉たる他者との差異。SNSに流れるキラキラした人生が眩しいのは、目の眩むような「差異」を見せ付けられているからでしょう。

フランスの哲学者、ジャン・ボードリヤールは、価値とは「差異を消費すること」と指摘し、現代の消費社会の思想に大きな影響を与えました。そのとおり現代のビジネスでは、競合との差別化、競争力の開発に各社が躍起になっています。これらは言い換えれば「差異」の開発です。

差異を確立する、違いを生み出すことは、自由な社会で価値を示す必須条件となります。

SNSのタイムラインは「差異」に溢れています。僕たちはスマホのスモールスクリーンをスワイプしながら、多様性が放つ差異の獣に人生を食い荒らされているのです。

逃避先としてのフィルターバブル、メタバース

現代社会は自由が所与の条件となり、誰もが自由の行使が求められる圧力に疲れてしまったように見えます。

もう一度、冒頭の引用に戻って考えてみます。

メディアやSNSを通じて、一生懸命に頑張っている人、充実した生を送っている人、新しい分野で成功した人の情報は常に入ってくる。
情報が全体化することで、「地元で一番」では満足できなくなり、インターネットで検索すれば、自分と同じ年齢なのにすごい人がいくらでも見つかる時代になった。
ここで、そうはなれない自分に疲れるのである。

自由に疲れた現代社会において、人々はだんだん自分の見たくない情報を遮断するようになります。遮断機能であるフィルターで各人が泡のように包まれ、心地良い環境を形成することをフィルターバブルといいます。

SNSでもフォロー・フォロワーを思想の近い人で固めたり、ミュートやブロックで意見を異にする人を排除したりして、フィルターバブルが形成されていきます。世界はインターネットで繋がっていますが、実際には人々はフィルターバブルで分断される傾向にあります。

フィルターバブルの中は「差異」を打ち消す方向になるため、さながら自由よりも平等を重んじる社会主義です。世界がフィルターバブルという小さな無数の社会主義の泡で充たされるような姿になります。泡の中で人々は先鋭化し、意見が極端に触れる様子も観察されます。批判を認めず、同調圧力を高め、バブルの中で意見が違えば裏切り者と排除されることも珍しくありません。

こうして分断の単位はどんどん細分化され、いずれは自分一人だけを包む究極のフィルターバブルが形成されるかも知れません。

いま、メタバースという現実世界とは異なる仮想空間の概念が台頭しています。メタバースは極小化されたフィルターバブルの受け皿になるのではないでしょうか。自由の圧力で充ちた現実世界から逃避して、メタバースの仮想空間で平穏を取り戻す。過去の歴史では自由からの逃避先は社会主義革命でしたが、現代ではフィルターバブル、そしてメタバースに置き換わるのでしょう。

生まれたときに自由のチケットを一方的に渡してきて、それを死ぬまでに使い切ることを要求する社会が嫌になるのだ。

自分だけの「孤独な世界」を持っておく

フィルターバブル、メタバースの例は極端だとしても、自由な社会の中で、思考に他人が関与しない自分だけの世界を持っておくことは大事になってきます。

ここまで書いておいてなんですが、僕自身はSNSを使いこなせておらず、他人のキラキラした人生を見る機会が乏しいのです。Twitterは面倒で大してタイムラインを読まないし、Instagramは自分の会社のアカウント更新すら億劫になりがちです。Facebookに至ってはパスワードを覚えておらず、そのまま放置しています。

加えて、一人っ子だった生い立ちからか、昔から孤独でいる時間が好きでした。子どもの頃から一人で本を読む、音楽を聴く、映像を見る時間が多く、だんだんと文章を書く、音楽を作る、映像を作ることが趣味になっていきました。今では、それが仕事になってもいます。

ドイツの哲学者、ハンナ・アーレントは「孤独とは、自分自身と一緒にいる時間」と定義します。今で言う「ソロ充」でしょうか。

ソロ充の快楽は、本質的に、独我論的な閉鎖空間なのである。
アイドルやYoutuberを推すこと、一人で旅行に出かけること、おいしいものを食べること、韓流ドラマやアニメを見ること、好きな音楽を聴くこと、これらのことは原則として誰にも迷惑をかけないで行うことができる。
というよりも、他者には干渉してほしくないし、基本的にその快楽を他者と共有しようと思わない。

この「他者には干渉してほしくない」「快楽を他者と共有しようと思わない」とは、まさに僕の好きな「孤独の世界」と合致します。

学校の集団生活では孤独、つまり一人でいることは「暗い」「友達が少ない」とネガティブな印象に捉えられがちで、僕自身もたいへん生きづらかった覚えがあります。ただ、大人になって思うことは「孤独の過ごし方」を身に付けていない人は、自由な社会において「他人の人生に過度に影響される」という別の生きづらさに直面するということです。

本書では「ソロ充」を幸福の類型として評価するものの、全員がそれを突き詰めると閉鎖空間に閉じ込められ、幸福を支える社会の条件が壊れてしまうと警鐘を鳴らします。これはフィルターバブル、メタバースへの危惧とも取れます。

要は程度問題なのだと思うのです。自由な社会に片足を置きつつ、もう片足を孤独な世界に置く。他人の人生と時間を共にしながら、自分だけと一緒にいる時間も大切にする。

自由な社会で心の平穏を保つには、他人の差異が簡単に見られる現代はたいへん過酷な時代です。他人との時間と、自分と一緒にいる時間、両方を大切にして生きていけたら素敵ですね。


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