●姓名判断を批判する否定派、懐疑派、改革派
姓名判断を批判する人にもいろいろあります。「姓名判断なんてインチキだ!」 と頭から否定する人々。これは懐疑派というより否定派です。
次に、姓名判断の実用価値は認めつつも、従来のやり方に異を唱える人々。これはたいていが、新たに一派、一流をおこす専門家、つまり占い師です。彼らの他流派批判を読んでみると、姓名判断が抱えるさまざまな問題点が見えてくるので、こちらとしては大変参考になります。
が、占い師による同業者批判は別の機会に譲るとして、ここではまず、否定派の意見に耳を傾けてみましょう。姓名判断が次の時代を生き抜くためには、ぜったい避けて通れない「するどい指摘」が満載だからです。
●牧田彌禎の批判
明治末期から大正初期にかけて、姓名判断はすでに大衆の間に広まっていました。大正2年〔1993年〕に書かれた『姓名学顧問』(選名研究会編纂)の序文からは、当時の様子がありありと窺えます。
大正初期の話なので、東京都ではなく、まだ東京市です。「睥睨」 などという難しい言葉がでてきますが、「にらみつけて威圧する」という意味だそうです。この時代の姓名判断書は、格調高いというか、仰々しいというか、概して難しい表現が多いのが特徴です。
そして大正の後期ともなると、そろそろ姓名判断を問題視する動きがでてきます。大正10年に刊行された『斯くの如き迷信を打破せよ』(牧田彌禎著)は迷信全般を批判したものですが、姓名判断に対する強い批判を書いたものとしては、時期的に一番早いと思われます。[注]
読んでみると、批判の中身はかなり辛らつです。西郷隆盛や金原明善(天竜川の治水事業などで活躍した明治時代の実業家)などの著名人の名前を例にあげて、姓名判断のいい加減さを暴露しています。以下に要約します。
●開運は金持ちの特権だった
五十円、七十円の姓名判断書がどのくらい高価だったか、当時の物価を知れば実感できるでしょう。大正10年には、東京の公立小学校教員の初任給が40円~50円、毎日新聞(当時は東京日日新聞)の1ヶ月分の購読料が1円、国鉄(鉄道事業のJRグループ前身)の駅弁は1個20銭だったそうです。[*3]
五十円の姓名判断書は、なんと駅弁250食分にも相当します。今なら20~25万円くらいでしょうか。とても庶民に手が出せる金額ではありませんね。