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姓名判断を批判する人々(2):富士川游

●富士川游の批判

昭和に入ると、第二次 姓名判断ブーム後半の火付け役となった熊﨑健翁氏が現れ、いっそう世間を賑わすことになるのですが、ちょうどその頃に書かれた『迷信の研究』(富士川游著) から引用・要約してみましょう。[*1]

「わが国では、むかし名乗りを反すということが行なわれた。これは文字の音韻に五行の相生・相剋を当てはめて、相性がいいとか悪いとかいって吉凶を選ぶ迷信からおこったものである。

また、名乗り、花押および通称などを選び、本命・相生等を論じたこともあった。このような方法は析字の法といい、一字を分解して吉凶を判断するものであった。

それが最近になって姓名判断と名づけられるようになり、その方法は姓名の字画を調べ、偶数なら陰、奇数なら陽として、その陰陽配列いかんによって吉凶を判断したり、数に吉と凶を定め、姓名の文字の画数を数えて吉凶を判断するようになった。・・・

数の神秘を信じるのは古代人の思想で、これが非科学的なものであることは言うまでもない。殊に人々が勝手につけた名前が数の支配を受けて、その人の吉凶禍福を生ずると説くにいたっては、荒唐無稽もまたはなはだしいと言わねばならない。」(下線は著者)

『迷信の研究』(富士川游著、昭和7年刊)

●数の神秘は荒唐無稽か?

「数の神秘を信じるのは古代人の思想で非科学的」という一点に限れば、はたしてそのように断定できるものか、疑問がないでもありません。

というのも、心理学者のC.G.ユングは、数が発明されたものであると同時に、発見されたものであり、自律性をもっていると考えていたようです。そして、「数は・・・人間の意識を条件づけることがある」というのです。数の神秘を信じるのは、なにも古代人に限らないということでしょう。[*2]

ユングを批判する学者もいるので、ユングの考えがそのまま「数の神秘性」 を保証するわけではありませんが、こうした見解もあるということは興味深いことです。

「人々が勝手につけた名前が数の支配を受けて、その人の吉凶禍福を生ずると説くにいたっては、荒唐無稽もまたはなはだしい」と言いたい気持ちはわかりますが、そう性急に結論を出さずに、もう少し可能性を考えてみようではありませんか。

しかし、これなどはまだ表現も穏やかなほうで、次の『迷信の解剖』(日野九恩著、昭和13年刊) になると、かなり感情がこもってきます。

====================<注記>===================
[*1] 『迷信の研究』(富士川游著、昭和7年刊)
[*2] 『共時性:非因果的連関の原理』(C.G.ユング著、『自然現象と心の構造』所収、海鳴社、1976年刊)

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