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〈ビズリーチ的〉生きづらさのなかで

うちがわから削られてゆくビズリーチの広告が繰り返し流れて

 
 2010年代あたりだろうか、現代短歌の時流という文脈において、〈生きづらさ〉の表出というのがひとつのシーンを生み出していた。歌集としては異例の反響を得た『滑走路』の萩原慎一郎をはじめとして、いわゆる〈生きづらさ系〉の系譜にある歌人たちは、非正規やワーキングプアという現代の一側面を照射しつつ、平成後期という時代の閉塞感をあぶり出していった。こうした系譜に位置する優れた歌人あるいは歌集は、短歌という詩形において、シビアな現代を生きる若者の姿を鋭く描くことで、歌人のみならず多くの読者の共感を獲得していったように思う。

 少し前に、そんな話をしていたときのこと。ある歌友の次の言葉が印象的だった。

「〈生きづらさ系〉の短歌は、(ジャンルとしては)すでに成り立たなくなっていると思う。なぜなら、今日ではもう誰もが生きづらいから。」

平成が遠く過ぎ去り、令和となってはや五年となる今、先の友人の鋭い指摘に一同は深く頷いた。

 「誰もが生きづらいって、かなしいね。」

作品においてはふつう、およそ直接的な感情表現は避けるきらいのある歌人の、この「かなしい」ということばには、重く胸を打つものがあった。


 
 思えば、短歌あるいは詩というものは、そうしたシビアな現実の受け皿となるのだろう。ある者は現実の苦しさをそのなかに吐露し、またある者はそこに理想や審美を追求するかもしれない。いずれにせよ、定型や詩形の存在によって、ことばは意味を凝縮させ、象徴性を帯び、あるいは抽象性を高めることで、現実への対抗手段となる。
 そういう意味では、「広告」というものは、同様の手段や戦略をもって、わたしたちの意識また無意識へと巧妙に語りかけてくる。概して、そこに表れることばはキャッチーで煌びやかだ。資本主義という巨大な理念のなかにおいて、広告が喧伝するフレーズはある種の美しさを担保されている。その威力はあまりに強大で、詩や文学のことばでは到底太刀打ちできそうもない。そのように圧倒的な広告のことばに晒されるとき、ときおりそれがノイズに感じられる瞬間がある。

 「ビズリーチ」のCMがこれほどまでに目に付くになったのはいつ頃からだろうか。テレビCMのみならず、SNSや動画サイト上のネット広告でも、今や同社の広告を見ない日はない。自社の名前を高らかに喧伝する例のCMは、確かに印象的で脳裏に焼き付くものがある。それがいつしかノイズとして、自らの内にほの暗い翳りを生んでいるような気がする。
 ビズリーチは、そもそも主に高年収の管理職人材を対象としたハイクラス転職サービスであることを売りとしている。数の上ではほんの一握りの層を対象としながらマス広告を打てるのには、企業戦略に加えておそらくは豊富な資金力があるのだろう。〈即戦力の逸材をヘッドハントする〉という趣旨のストーリーはいかにも資本主義的だが、最近ではそのCMの内容が変容している。
 自社への登録を〈キャリアの健康診断〉といういかにもそれらしい文句で誘導する、最新のビズリーチテレビCM。「あれ?登録してないの?」と、視聴者の潜在的な不安を煽るその広告は、おそらくは同社が対象としていない層には二重のダメージを与えてくる。不可避的に〈自分の市場価値〉なるものを否応なく突きつけられる度に、何かがけずられてゆくような、そんな気がしている。


 
 誰もが生きづらいという今日の世界で、僕自身が最も〈生きづらさ〉を感じるのは、例えば、このビズリーチの広告に晒される瞬間かもしれない。
 思えば、ビズリーチのみならず、今日び最も目にするのは、数多の人材関連や転職サービスの広告だ。それが示唆するのは、現代の資本主義社会においては、もはや二十世紀的な大量消費の時代は終焉を迎え、かつて消費者だったひとりひとりが今や人材という商品と化しているということなのだろう。

 詩や短歌という、資本主義の文脈では限りなく市場価値がゼロに近い営み——その営みを続けるのならば、僕たちはいかなることばを選択し、表現できるだろうか。生きづらさの時代において、ことばの強度が問われている。

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