五月の音色
樹下しずか五月の幹をふとらせてゆくごとき風のなかのフルート
「その昔、憧れていた女の子がフルートを吹いていて、放課後、ときどき用もなく音楽室の前を通っては、練習中の姿を盗み見ていたことがある。」
ある知人が、三杯目のキューバ・リブレに幾分か饒舌になって、そう話すのを聞いていた。二杯目のトム・コリンズにまだ口をつけたばかりの僕は、彼の思い出話にときおり相槌を打ちながら、同様に遠い昔の記憶を思い返していた。
どちらかというと、フルートには近寄りがたいものがある。繊細で高音域を奏でる澄んだ音色にはどことなく心が落ち着かないようなところがあって、演奏時のあの構え方にも、なぜか人を寄せつけぬような距離を感じるのは僕だけだろうか。(あるいは、たまたま近くにいたフルート奏者が苦手なタイプだったというだけかもしれないけれど。)
僕の場合は、トランペットだった。
かつて親しくしていた友人がトランペットをやっていた。ある日の放課後、図書室から教室へ戻ると、部活終わりの彼女がひとり、楽器の手入れをしているところだった。机の上に広げられたタオルには、いくつかに分解された部品が並べられている。彼女はそれを一つずつ手に取り、丁寧にガーゼで拭いてゆく。そうして磨き上げられ、再び組み立てられたトランペットは、窓から注ぎ込む夕陽を受けてまぶしく輝いていた。オーケストラのなかでは小さな部類に入るトランペットだが、実際に目の前で見たそれは思っていた以上に存在感があり、そして美しかった。
その日以来、何となく夕刻の教室で顔を合わせると、彼女が楽器の手入れを終えるのを待ってから、駅までのわずかな道をふたりで帰るようになった。華奢で人前ではあまり目立たぬタイプの彼女だったが、不思議と黒の楽器ケースを手に提げている姿は凛々しく、格好よかった。
いつしか彼女とは疎遠になってしまったが、それからもトランペットという楽器は僕のなかで大きな存在を占めている。塞ぎ込みたくなるような日には、チェット・ベイカーを聴いたし、眠れぬ雨の夜にはファッツ・ナヴァロを聴いていた。クリス・ボッティのコンサートにも二度ほど足を運んで、CDにサインを貰ったこともある。
彼女とのことに未練はない。ただ、一つだけ心残りなのは、結局、一度たりとも彼女が吹くトランペットを聴かなかったことだ。一度、いつものように楽器の手入れをしている彼女に、「ちょっとだけ、トランペットを聴かせてくれないか?」と訊いたことがある。
「絶対に嫌よ。」そう言って、彼女は笑っていた。
五月。夏の訪れを肌に感じる黄昏のなかで、ときおり僕は思い出す。放課後二人きりの教室にて、一度も聴くことの叶わなかったあのトランペットの音色を。
風死すと少女は言えり夕映えのトランペットの黄金深し
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