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話しすぎなのは・・・

話しすぎなのはわたしか彼なのか花冷えの美容院ヘアサロンにしばらく

 
 三月という季の巡りに幾ばくか感傷的になりながら、その感慨に身を委ねるようにして詠んだ冒頭歌。率直に言えば、心情の提示の度合いと表現上の抑制とがそれなりに上手くいったと手前味噌ながら思う一首ではあったが、ある歌会でも珍しくまずまず票の集まる結果となった。

 
 それはさておき、件の歌会では、歌そのものの評価とは別に、冒頭歌への反応が人によって様々であったことが印象的だった。
 拙歌への共感ないしは歌意をすくう意見としては、美容師との会話が思いのほか弾んでしまったことにふと気づく瞬間がある、というもの。「彼」の接客トークに思わず乗せられてしまったのか、それとも「わたし」が必要以上に話しすぎていたのだろうか。誰か、とりわけそれほど近しくもない人のとの会話においては、美容院ならずとも、そんな自問が心をよぎる瞬間は誰しも経験があるように思う。
 しかしながら、こと美容院という場においては、「自分には当てはまらないが…」という意見の方が多かったように思う。評者のなかには、歌意を丁寧にすくいながら、「自分の場合は、席に着くやすぐに目を閉じて眠りに就くので、美容師とは話すことはない」という人も。どうやら、こちらの方が多数派だったのかもしれない。

 
 ちなみに、僕自身も実のところは、美容師との会話は得意な方ではない。もともとは、先の評者と同様に、挨拶もそこそこに最初の鋏が入るころには目を閉ざして、自分の繭の内へと沈んでいき、会話をシャットダウンしていたような気がする。
 それがいつからだろうか、施術中にも何となく世間話をするようになっていった。おそらく、沈黙の重さに耐え続けるよりも、当たり障りのない会話を重ねる方がずいぶんと楽なことに気づいたからだと思う。僕自身、かつては接客業に従事していたこともあり、相手の会話のペースに上手く乗ることができたのかもしれない。思えば、担当の美容師とはずいぶん長い付き合いになり、今では自然と会話のラリーを続けながら、リラックスしていられるようになった。
 とは言いながらも、ドライヤーやバリカンの音が断続的に響き、また他のスタッフや客にもこちらの会話が聞こえてしまう距離感のなかで、自身の声のヴォリュームに惑い、どこまで自己の情報を開示すべきかを探っていることも少なくはない。あるいは、それまでの会話がふと途切れ、不意の沈黙に気まずさを覚える瞬間もあって、そんなときには、冒頭歌のような自問がふと胸をよぎる。やはり美容院には独特の緊張感がある。
 自身が販売員側の立場であった頃には、他者に顧客を奪われないためにも、いかに顧客の心の一歩内に入り込めるかということを意識していた。けれども、美容師のような接客業においては、むしろ各顧客との適切な距離感を見定め、その距離を保ち続けることが重要なのかもしれない。筆をすべらせながら、ふとそんなことを考えている。

 
 さて、長い付き合いとなった担当美容師は、先般、独立して自身の店を構えることとなった。僕はというと、それに伴い、今は新店にて引き続き彼にお世話になっている。それまでの店舗に比べると、店の広さは小ぶりでスタッフも少人数なのだが、そのせいか以前よりも会話の頻度は増したように思う。
 開店時には、祝いの言葉も伝えたのだが、決して当たり障りのない社交辞令ではなく、本心からの思いであった。果たして、それは彼にも伝わっていただろうか。

 新たな店舗で、引き続き髪を切ってもらいながら、開店準備にあたっての諸所の苦労や、しかし今は念願の自店が持てて充実していることなどを聞いている。心なしか、美容師との距離が少し近づいたように思えるのは、花冷えというこの時候のせいだろうか。

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